平安時代の国際関係と刀伊の入寇

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平安時代中期
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9世紀から10世紀にかけて東アジア諸国は激動の時代を迎える。

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諸国の変動

中国

華北・華南

中国では唐が政権を握っている時代であったが、8世紀半ばの安史の乱の影響で国は荒れ、ついに黄巣の乱を契機に907年滅んでしまう。979年に宋が中国を統一するまで、五代十国時代が続き、混乱時代を呈すこととなる。

東北部

耶律阿保機(やりつあほぎ)に率いられた契丹族(きったんぞく)が遼(りょう)を916年に建国し、926年、渤海を滅ぼした。

朝鮮半島

新羅でも内乱が続き、各地に勢力が割拠し、935年、高句麗の子孫を称する王建(おうけん)により建国された高麗(こうらい)により新羅は滅びる。

参考内部リンク

詳しくは

を参考にしてください。

日本の対応

積極的な孤立主義をとる。

遣唐使中止の建議

9世紀末、遣唐大使に任命された菅原道真は、当時唐に滞在し、その疲弊を目にしていた僧侶の中瓘(ちゅうかん)の報告により、唐の疲弊と航路の危険を知り、それを理由に遣唐使船の停止を宇多天皇に建議し、受容された。

交易

遣唐使船廃止後も中国・朝鮮からの政治的使節は流入、商人ともやり取りは続いた。国家的交渉は拒絶した。宋が中国を統一すると、以前に比べて海を挟んだ物流は盛んになった。しかし、宋が建国された後も、日本はこの国と正式な国交を開かなかった。
10世紀頃までは日本から大陸へは金・銀・絹・綿花などが輸出され、大陸からは対価として、陶磁器や薬品、仏教の経典・仏具・仏像などがもたらされた。
10世紀になると、菅原道真の漢詩文集や源信の「往生要集」が中国に送られた。
円仁が書いた「入唐求法巡礼行記」も当時の国際関係を知る重要な手がかりである。

入宋僧

奝然

奝然(ちょうねん)は10世紀後半入宋して、太宗に謁見し、釈迦如来像を持ち帰った。その釈迦如来像は清凉寺(せいりょうじ)に安置されている。

その他の入宋僧

  • 弱照(じゃくしょう)
  • 成尋(じょうじん)

参考内部リンク

藤原家の他家排斥に菅原道真の詳細が載ってます。

刀伊の入寇

1019年3月27日、刀伊の入寇といのにゅうこうが起こる。
賊船50余隻

これは女真族が博多湾に侵入してきた事件である。
この民族は後に金を建国する。刀伊の入寇

刀伊とは?

刀伊とは蛮夷を指す言葉で、
正体不明の相手です。

日本側は情報不足で、
相手の正体やどこからきたかは
わかりませんでした。

刀伊の入寇の犠牲者

対馬で殺されたり、捕虜にされた人は382人
壱岐は148人が死亡し、298人が連れ去られました。

日本の総被害は、
死者600名以上、拉致1200名、380頭の牛馬が犠牲になりました。
民家は数え切れないくらい壊されました。

刀伊の撃退

大宰権帥・藤原隆家によって、矢が刀伊の半分しか飛ばない等、
苦戦したものの刀伊たちは撃退される。

刀伊は松浦を攻撃しつつも、
撃退され、4月13日に帰っていきました。

刀伊によって掠奪された日本人捕虜は高麗によって奪還され、
300人の捕虜が日本へ送還された。

数が合わないのは、
屈強な高麗人が捕虜に追加されると、
その分の病気に冒された日本人が海に捨てられていたからです。

日本の国境と穢れ思想

「四方の堺、東方は陸奥、西方は小値嘉、南方は土佐、北方は佐渡」

儀式書

東は「俘囚の地」から西の「貴賀の島」まで商人が活躍する書物

『新猿楽記』

とあり、この時代には日本でも国境の概念がすでに存在していた。

9世紀になると、日本は対外的孤立主義政策をとるようになり、また、貴族社会でも穢れ(ケガレ)の概念が発達すると国境より外の地域を「穢れた地」とする外国への差別意識も生まれた。海外の人を「外人」と呼ぶのも穢れ思想から来ているものと思われる

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