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平安時代中期

奥州藤原氏の100年の栄華

平安時代中期
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源義家が去ったあとの奥羽地方では、陸奥の藤原清衡(ふじわらのきよひら)の支配が強大となった。奥羽と出羽の2国に勢力を伸ばした。
藤原清衡、藤原基衡(ふじわらのもとひら)、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)と藤原泰衡の奥州藤原氏四代によって、約100年間平泉を中心に奥州藤原文化が開花することになる。奥州藤原氏は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、今の東北地方一帯を治めた一族です。初代の藤原清衡からはじまって、基衡・秀衡・泰衡と4代続いた。

 

鎌倉幕府初代軍源頼朝に責められて滅亡しました。それが奥州藤原氏です。

奥州藤原氏は平泉の地に仏国土つまり仏の国や仏の世界という理想郷とも言える浄土を目指して多くの仏教建築家体を造営しました。

初代・藤原清衡

初代・藤原清衡の父は地方官僚の藤原経清でした。平将門を討伐した藤原秀郷の子孫でした。平将門の乱でそこから奥州藤原氏が始まって、藤原清衡は出羽国の覇者となり、勢力を広げ続けて、東北地方の実質的な支配者に上り詰めました。藤原清衡は拠点を平泉に移すと、仏教都市づくりを始めました。

平泉はもちろん支配にある村落の一つ一つにも寺院を建てたと言われています。

なぜ彼はここまで仏教建築に力を入れたのか?

相次ぐ戦乱で失われた多くの命を慰め、平和な会をりたかったからだと言われています。

2代・藤原基衡

初代、藤原清衡は70を越えて亡くなります。跡を継いだのは次男の藤原基衡。

この時代長男が必ずしも跡を継ぐっていう風にはなかっですが基衡の場合長男で正当な跡取りとされていた是経との争いに勝って、ニ代目の座に収まった。

藤原基衡は1143年に赴任してきた国司である藤原元就との融和を図るために彼の娘を嫡男の秀衡に嫁がせました。ここで得た縁が一族のさらなる発展をもたらしたと言われています。

3代・藤原秀衡

基衡の死後は藤原秀衡が三代目として跡目を継ぐ。妻の実家の財力を振るって秀衡は中央貴族へ金や馬を献上したり、あるいは寺社を寄進したりして自己の評価を高めまし。たその甲斐あって秀衡は鎮守府将軍に任ぜられましあ。陸奥国を軍政府の長官に任命されました。その前の清衡と基衡は高い官職ではなかったが、秀衡の地位はすごい大きな意味があってこれで名実ともに奥州の支配者と権から認められました。

秀衡は祖父や父と同じく都市計画を進めて無量光院を建立したとこのお寺っていうのは宇治平等院鳳凰堂を模して作られたみたいなんですけれどもその規模は平等院よりも少し大きかったと一方で日々枚は平泉の平和維持に尽力したんですね。京や他の地域で合戦があってもあくまでも中立を貫きました。

1186年に平氏を滅ぼした頼朝から牽制のような書状が送られてくることでそれも秀衡は衝突を避けて対応したと頼朝は奥州で絶大な力を持つ秀衡をかなり警戒していた。その後も度々圧力をかけてくると1187年になると、頼朝の弟である義経が追放されて奥州へやってきます。義経は以前にも秀衡のもとに身を寄せたことがあリました。秀衡は頼朝との戦いを覚悟したのが義経を匿う。ですが、この年秀衡が病で世を去ってしまう。

奥州藤原文化

中尊寺金色堂

藤原清衡が建築した代表的な建造物。
中尊寺金色堂

中尊寺金色堂には清衡基衡秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首が今も安置されています。

京から優れた技術者を呼び中尊寺を作りました。中尊寺の金色堂は当時の最高水準の建築物となりました。他にも藤原清衡は数え切れないほどの建築物であると庭園を築いた。

毛越寺

藤原基衡が建てた建造物は毛越寺(もえつじ)
今は跡形も残っておらず、庭しか残っていない。

基衡は清原が築いた仏教都市をさらに発展させました。その対象が毛越寺の建立です。今はもう見られませんが、中尊寺に匹敵するような建築だったといわれています。毛越寺本尊の薬師如来像の制作は京都の仏師に莫大な謝礼を支払って依頼しました。それが3年ほど時間がかかったようです。ものすごい仏像が完成した。その素晴らしさというのは噂を聞きつけて、わざわざ見に来た鳥羽上皇がこれほどのものを京から出してはならないと命じるほどでした。

無量光院

藤原秀衡が建てたもの。

奥州藤原氏100年の2つの理由

東北地方は金の産地であり、良馬の産地であったため。
この2つの産物の富によって摂関家や院と関係をもち、教徒の文化を移入するとともに、北方の地との交流で独自の文化を育てて富強を誇った。

奥州藤原氏の滅亡

四代目の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)が源頼朝に滅ぼされ、奥州藤原氏は滅亡した。

 

4代の泰衡は秀衡の正妻から生まれたものの次男であったので、側室から生まれた藤原国衡って兄がいました。ですが兄弟仲は険悪で死期が迫った基衡は跡目争いを心配し、ただでさえ鎌倉幕府との緊張が高まっているのに内紛が起きれば頼朝に付け入る隙を与えてしまいます。秀衡は息子たちに義経を大将軍として迎え、奥州を守れと告げた。そして兄弟が争わないように取り計らってからなくなった。

翌年になると義経の奥州潜伏っていうのがばれてしまうんですね。源頼朝は藤原泰衡たちへ義経討伐の命を何度も要請したとか頼朝はその後奥州藤原氏が義経の味方であると確信して朝廷に奥州討伐を申し入れる。泰衡は義経が見つかり次第打ちますっていう手紙送るんですけれどももう相手にされません。藤原泰衡は源義経を攻めて自害に追い込んでしまいます。ですから父の遺言っていうのは全く無視してしまったですね。藤原泰衡は義経の首を頼朝に送ったんですけれども全く意味がありませんでした。頼朝は既に奥州藤原氏を滅ぼすっていう風に決意していた。そして頼朝は全国の武士に奥州攻めの動員令を発して、自らも軍を率いて奥州へ向かう。最終的に戦に敗れた藤原泰衡は殺されて、あれほどの権勢を誇っていた奥州藤原氏が滅亡した。

こういう状況だったので泰衡が先代までのように都市づくりを行う余裕はほとんどなかった。

この戦での勝利が実は源頼朝の武家政権の確立っていうの後押ししたですね。

遺言どおり義経に仕えていたら奥州藤原氏は・・・

中尊寺金色堂には清衡基衡秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首が今も安置されている

東北の地に一大勢力を築きながらも源氏との戦いに敗れてしまった奥州藤原氏ですがその栄華って今も建造物であるとか遺跡群から窺うことができる

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