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鎌倉時代

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平安時代後期

平家への恩義と源氏への帰順〜紀伊最大の武士団「湯浅党」飛躍の軌跡

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、紀伊国在田郡湯浅荘(現在の和歌山県有田郡湯浅町周辺)を本拠とし、紀伊半島一帯に巨大な勢力を誇った武士団「湯浅党」。その礎を築いた家祖・湯浅宗重(ゆあさ むねしげ)は、平治の乱から源平合戦(治承・寿永の乱)と...
戦国武将

赤松一族を中心とした播磨の豪族たち 〜その成り立ちと興亡〜

播磨源氏の祖・山田入道と西播磨への土着 赤松一族の遠祖は、村上天皇の第七皇子・具平親王の血を引く村上源氏とされています。天永年間(1110〜1113年頃)、ゆえあって播磨国に配流された源季房が土着し、その孫(または曾孫)にあたる山田伊豆守則...
平安時代後期

播磨源氏と山田入道 〜中世播磨を席巻した一族の源流〜

播磨源氏と山田入道 〜中世播磨を席巻した一族の源流〜播磨国(現在の兵庫県南西部)の中世史を語る上で欠かせないのが、守護大名として君臨した赤松氏と、それを支えた強力な一族たちの存在です。彼らは総称して「播磨源氏」とも呼ばれ、その系譜をたどると...
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平安時代

平安時代から鎌倉時代への移り変わりをわかりやすく

平安時代から鎌倉時代への移り変わりをわかりやすく、いくつかの代表的な「始まりの説」をピックアップして解説します。歴史の教科書では「1185年」が一般的ですが、実は「どこを区切りとするか」によって、いくつかの考え方があるのです。平安時代から鎌...
鎌倉時代

悲運の「徳の君」土御門上皇:自分から流罪を志願した天皇の話

高知県と徳島県の中学生のみなさん、入試には「承久の乱の結果、3人の上皇が流された」と出ますが、実はそのうちの1人、土御門上皇だけは他の2人と全く事情が違いました。【感動のエピソード】「父上が流されるなら、私も」承久の乱のリーダーは後鳥羽(ご...
鎌倉時代

高校入試に出る!徳島・香川の歴史:承久の乱が作った『後藤田家』と『玉木雄一郎』の源流

徳島県・香川県の中学生のみなさん、そして高校入試を控えた受験生のみなさんへ。今回は、鎌倉時代の1221年に起きた**承久の乱(じょうきゅうのらん)**をきっかけとした、香川県(讃岐国)のリーダー交代の歴史について解説します。実は、今の徳島や...
鎌倉時代

阿波国:近江佐々木氏から甲斐小笠原氏への権力移譲と「山奥への隠遁」

承久の乱(1221年)は、阿波国の統治体制を根本から塗り替える歴史的転換点となりました。この記事では、敗者となった佐々木氏の没落と、新勢力として入国した小笠原氏への権力移譲、そしてその後の歴史への繋がりを詳述します。阿波守護・佐々木氏の動向...
鎌倉時代

永仁の徳政令とは?2つのパターンと越訴・信用崩壊から見る鎌倉幕府滅亡への流れ【北条貞時】

永仁の徳政令とは何か?永仁の徳政令(1297年)は、鎌倉幕府が出した👉 御家人の経済救済政策です。当時の執権は👉 北条貞時でした。なぜ徳政令が出されたのか?背景には、元寇後の深刻な経済問題があります。御家人の状況戦費負担(元寇)異国警固番役...
鎌倉時代

弘安の役とは?東路軍・江南軍の大侵攻と“神風”の実態をわかりやすく解説【范文虎・鷹島】

弘安の役とは何か?弘安の役(1281年)は、元(モンゴル帝国)が日本に再び侵攻した戦いで、👉 文永の役(1274年)に続く2回目の元寇です。このときも日本側の執権は👉 北条時宗 でした。前回の失敗を踏まえ、元は大規模な遠征軍を準備し、日本侵...
鎌倉時代

文永の役とは?北条時宗と元寇の最初の戦いをわかりやすく解説【忻都・洪茶丘・少弐経資】

文永の役とは何か?文永の役(1274年)は、元(モンゴル帝国)と高麗の連合軍が日本に侵攻した戦いで、いわゆる元寇(げんこう)の最初の戦いです。このとき日本側の執権(実質的なトップ)は👉 北条時宗 でした。元の皇帝 フビライ・ハン は、日本に...
鎌倉時代

霜月騒動-御内人・平頼綱vs外様・安達泰盛-

御内人と内管領vs外様得宗権が強化されると、一般御家人は外様とざまと呼ばれるようになっていった。外様は、北条氏一門である御内・御内人みうち・みうちびとと呼ばれる人たちと対立していくようになった。ちなみに御内人の代表格を御家人首座や内管領うち...
鎌倉時代

北条得宗家の独裁と得宗専制政治体制

北条時頼は1247年に、三浦氏を滅ぼしました。https://歴史総合.com/%e5%8c%97%e6%9d%a1%e6%99%82%e9%a0%bc%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3/その後、北条氏of北条氏である北...
鎌倉時代

両統迭立-大覚寺統vs持明院統-皇室内の対立 南北朝の動乱の根源

承久の乱のあと、ゴッドバード上皇で有名な後鳥羽上皇は隠岐へ島流しリゾートになりました。隠岐といえば島流しリゾートですね。https://歴史総合.com/%e6%89%bf%e4%b9%85%e3%81%ae%e4%b9%b1/他に有名な島...
鎌倉時代

藤原北家の分裂と五摂家の成立(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)

鎌倉時代には、朝廷の方でも動きがあります。話は変わりますが、貴族の色って、紫色ですよね?最近、緑色の方ばかり中継されますが、紫色の原料や普通の青色の原料も貴重だったので、紫色と青色も位が高い色なのに。話を戻して、今日は藤原北家の分裂について...
鎌倉時代

北条時宗の時代-二度の元寇(文永の役・弘安の役)に勝利・異国警固番役の設置-

北条時宗といえば、Civilization6で、日本の主要リーダーとして登場しています。海外では、北条家の家紋がトライフォースに見えることから、トライフォースくんの愛称でも知られています。さて、北条時宗は鎌倉幕府第8代執権です。二度の元寇を...
鎌倉時代

北条時頼の時代-宝治合戦と三浦一族の滅亡・引付衆の設置-

北条時頼は3代執権北条泰時の孫で、4代執権北条経時の弟です。宝治合戦(宝治の乱)と三浦一族の滅亡1247年、三浦泰村が討たれ、鎌倉幕府で源頼朝の代から有力御家人であった、三浦氏が滅亡します。1247年の和暦が宝治だったことから、宝治の戦い宝...
鎌倉時代

新補率法の新補地頭-本補地頭との違いと大田文

北条義時は承久の乱の勝利後、大土地持ちとして君臨して、日本全国の土地について監督することになります。承久の乱後の戦後の土地没収承久の乱後、北条義時は後鳥羽上皇に属した主に西日本の公家・武家領約3000ヶ所を没収しました。新補率法と新補地頭承...
鎌倉時代

六波羅探題の設置(前身は京都守護)

承久の乱が終わって、天皇は仲恭天皇から後堀河天皇に交代しました。六波羅探題の設置京都守護が鎌倉勢によって置かれていましたが、京都守護では手狭だとなりました。なにせ京都の大都会を監視するには、守護では物足りなくなったのです。事実、京都守護では...
鎌倉時代

承久の乱とは?→「後鳥羽上皇が島流しされた反乱」

承久の乱の背景幕府と朝廷の対立幕府の動向治承寿永の乱のなか、東国の武士を中心とする体制を築いていました。すでに守護・地頭が設置され警察権・徴税権を掌握されていました。しかし、西国では公家優位の支配体制が取られており、日本全体でみると武家と公...
鎌倉時代

源氏の将軍の時代と源氏の断絶

源頼朝は超特大の下級貴族である大江広元などを側近に利用し、その優れた政治的指導力により御家人を巧みにうまく統率していたが、1199年に源頼朝が亡くなると外戚である北条氏が台頭し御家人の間の対立が表面化します。議奏公卿源頼朝は右大将と呼ばれま...
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