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鎌倉時代未分類

承久の乱とは?→「後鳥羽上皇が島流しされた反乱」

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承久の乱の背景

幕府と朝廷の対立

幕府の動向

治承寿永の乱のなか、東国の武士を中心とする体制を築いていました。

治承・寿永の乱(源平合戦)と平家の滅亡
平清盛と安徳天皇1180年安徳天皇が即位します。安徳天皇とは?安徳天皇は平清盛の娘である建礼門院徳子を母に持ち、後白河法皇の皇子、高倉天皇を父に持つ。平氏追討の令旨後白河法皇の第2皇子、以仁王(もちひとおう)が、平氏追討の令旨(りょうじ)を...

すでに守護・地頭が設置され警察権・徴税権を掌握されていました。

守護と地頭の設置~鎌倉時代の実質的始まり~
源頼朝追討の宣旨1185年10月、後白河法皇は源頼朝を討つ命令を源義経に遣わします。この動きを知った源頼朝は、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)に命じて、京都で源義経を襲わせますが、失敗します。義経追捕の院宣源頼朝は、京都へ大軍を送りまし...

しかし、西国では公家優位の支配体制が取られており、日本全体でみると武家と公家の二元体制が取られていました。

朝廷の動向

九条兼実の失脚

鎌倉幕府で朝廷の実権を握っていたのは九条兼実です。

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承久の乱

承久の乱のはじまり

上記の結果、幕府と朝廷の関係は不安定となりました。

後鳥羽上皇は1221年(承久3年)5月北条義時追討の院宣を諸国の武士に発しました。
これが承久じょうきゅうの乱のはじまりです。

承久の乱の結果

承久の乱は1ヶ月で京都を占領して終わりました。
結果として朝廷は敗北します。
歴史的に見て珍しい朝敵への敗北です。

主な原因は後鳥羽上皇の人望が薄かったことで朝廷軍の兵力が少なかったことと幕府側が朝廷軍が来る前に、院宣を受けて出陣したことが大きな要因です。

幕府軍は朝廷をよく知る大江広元の献策により、短期決戦策をとりました。
幕府軍は北条義時の息子らが出立しました。長男・北条泰時を大将とし、北条泰時の弟、北条時房を副将とし、東海方面・東山方面・北陸方面の3方向から大軍を京都へ進ませました。

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承久の乱の戦後処理

三上皇の島流し

承久の乱の主犯者である後鳥羽上皇隠岐に流され、
後鳥羽上皇の次男の順徳上皇佐渡に流されました。

今回の乱にほとんど関与していない土御門上皇は、父と弟が流罪にあったのに、自分だけ流罪にならないのは申し訳無いと土佐へ流罪になって、のちに阿波に流されました。

天皇の交代

鎌倉幕府は後鳥羽上皇の血統を嫌い、後鳥羽上皇の孫・仲恭天皇ちゅうきょうてんのうを廃し、後鳥羽上皇の兄の子である後堀河天皇ごほりかわてんのうを即位させました。

六波羅探題の設置

京都には京都守護が設置されていましたが、承久の乱の後、鎌倉から送られてきた北条泰時らの軍が居座ってできたのが、六波羅探題です。

六波羅探題北方には北条泰時が、
六波羅探題南方には北条時房が就きました。

新補地頭の設置

承久の乱の結果、上皇に味方した公家武家の所領を没収しました。そこにはまた新しく地頭が設置されました。その地頭を新補地頭しんぼじとうといいます。

なぜ、新補地頭というのかという理由は、新補率法という規律が制定されたためです。新補率法の規定で得分が決まりました。

以前設置された地頭は、治承・寿永の乱の結果、平家から没収した所領に任命したもので本補地頭といいます。得分は決まっていません。先例に従っていただけです。新補地頭も本補地頭も1反あたり5升の加徴米の権利がありました。

5升は1石の5%分です。1石が1人が生きていくのに必要な米の量なので、1升はだいたい18日/人の米の量ですね。

大田文の作成

北条義時は土地台帳も作りました。現在放送中の大河ドラマ・鎌倉殿の13人でも北条義時は台帳好きとして描かれています。新補地頭の設置時に作った台帳が大田文おおたぶみです。

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