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表史

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昭和時代初期

君側の奸と呼ばれた天皇側近――西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎、昭和初期政局の光と影

はじめに:昭和初期、「君側の奸」とは誰だったのか君側の奸とは、もともと中国の古典に端を発し、「天子の側近で権勢をふるい、悪政へ導く奸臣」を意味する言葉です。しかし昭和初期の日本史においては、張作霖爆殺事件(1928年(昭和3年・戊辰))、田...
戦後の昭和時代

冷戦の雪解けと鳩山一郎内閣の自主外交 ―日ソ共同宣言・領土問題から55年体制まで―

鳩山一郎内閣(1954-1956年)に政権を担当していました。1. 冷戦の雪解けとアジア・アフリカ会議(バンドン会議)米ソ冷戦の緩和(雪解け) 1955年、米・英・仏・ソの首脳によるジュネーヴ四巨頭会議が開催され、ヨーロッパの安全保障や軍縮...
ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家体制の形成

激動のヨーロッパとイタリア戦争:マキャベリが目撃した権謀術数の時代

15世紀末から16世紀半ばにかけて、ヨーロッパは大きな転換期を迎えていました。大航海時代の突入により新大陸やアジアへの海外進出が活発化する一方で、ヨーロッパ内では有力諸国が領土の獲得をめぐって激しく争っていました。その中心となったのが、約半...
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明治時代初期

日清の撤兵と事前通告の義務!天津条約の要点と1889年防穀令の歴史

1. 漢城条約と天津条約(1885年)1884年の甲申事変で日本公使館が焼き討ちされた事件の責任をめぐり、1885年1月に漢城条約が結ばれ、朝鮮側が日本に謝罪と賠償を行いました。さらに同年4月には、日本の全権特使である伊藤博文と、清の北洋大...
明治時代初期

親日だった閔妃が「親清派」に!甲申事変の真実三日天下のクーデター!金玉均と独立党が夢見た朝鮮近代化の結末

1. 閔妃の政策転換:親日から親清へ最高権力者である高宗の妃である閔妃(びんぴ)は、初めは政治的ライバルである大院君(保守派)に対抗するため、日本などの力を借りて急速な近代化や開国を進める開化派(親日派)寄りのスタンスをとっていました。 し...
明治時代初期

「親中派 vs 親日派」の泥沼劇!壬午軍乱と済物浦条約がまねいた朝鮮危機の歴史

1880年代の朝鮮半島は、欧米列強や日本、そして従来の宗主国である清国の思惑が渦巻く中、国内の政治勢力が「守旧派(親清派)」と「開化派(親日派)」に真っ二つに分かれて激しい権力闘争を繰り広げた激動の時代でした。今回は、当時の対立構造の軸とな...
戦国時代

徳川家康の天下取りを支えた経済基盤:甲斐「守随秤」の5カ国採用と計量統制の野望

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が激突した「小牧・長久手の戦い」。この天下分け目の合戦の裏で、家康は単なる軍事衝突にとどまらず、支配領域における極めて高度な経済・行政改革を断行していました。その中核を担ったのが、甲斐の伝説的な計...
昭和時代初期

なぜ「海軍の粛清」は起きた?北一輝が授けた”魔法の杖”と昭和史の転換点

はじめに:条約の先に待っていた「理不尽」ロンドン海軍軍縮条約をめぐり、日本中を揺るがした「統帥権干犯問題」。政府と海軍、そして海軍内部における「条約派」と「艦隊派」による大喧嘩は、浜口雄幸内閣による条約批准という形でいったんの終結を見たよう...
西ヨーロッパ世界の成立

ノルマン人の大躍進 — 1066年ノルマン・コンクエストと地中海を制したシチリア王国の誕生

ノルマン人のパリ征服サンジェルマン=デ=プレ修道院修道士アボンは885年から886年の侵攻を目撃しました。彼は詩篇に託してそのときの様子を後世に伝えました。赤銅色の空の下、太陽が光を降り注いでいる中で、デーン人は至福の地ドニ(セーヌ川とサン...
西ヨーロッパ世界の成立

カノッサの屈辱と聖職叙任権闘争 — 教皇権と王権が激突した中世最大の転換点

はじめに:教会改革運動とグレゴリウス7世の即位11世紀半ばの西ヨーロッパでは、世俗権力による教会の支配や聖職者の堕落を正そうとする改革派の運動が大きな高まりを見せていました。その改革派の中心人物であった修道士ヒルデブラントは、1073年にロ...
西ヨーロッパ世界の成立

1054年の大分離と東西教会の対立 — ローマ・カトリックと東方正教会を隔てた首位権の深淵

はじめに:深まる東西の亀裂と「1054年の大分離」キリスト教世界では、かつてローマ帝国の東西分裂以降、西のローマを中心とする教会と、東のコンスタンティノープルを中心とする教会のあいだで、言語(ラテン語とギリシア語)、教理の解釈、儀礼の様式な...
西ヨーロッパ世界の成立

10世紀イベリア半島の光影 — 後ウマイヤ朝の黄金期とキリスト教諸国の相克・交易網の繁栄

はじめに:西ゴート王国の滅亡と残された「亡命者」たち8世紀初頭、イベリア半島を支配していた西ゴート王国がウマイヤ朝の侵攻によって滅亡すると、半島の大部分はイスラーム勢力の支配下(アル=アンダルス)に入りました。しかし、北部の険しい山岳地帯へ...
西ヨーロッパ世界の成立

北海の覇者とデーン朝 — 青歯王からクヌーズ大王の「北海帝国」結実へ(10〜11世紀)

スカンディナヴィアの変容とキリスト教への改宗10世紀から11世紀にかけて、スカンディナヴィア半島およびその周辺地域では大きな歴史的転換が起こりました。それまでこの地域には、独自の多神教(オーディンやトールなどを祀る北欧神話)や地域信仰を信奉...
西ヨーロッパ世界の成立

デーン人の脅威から統一王国へ — アルフレッド大王とエドガー平和王が築いたイングランド王国の成立

はじめに:英仏海峡を越えた侵攻とアングロサクソン人の危機英仏海峡を挟んでヨーロッパ大陸と向き合うブリテン島では、5世紀以降、ゲルマン系の一派であるアングロサクソン人が移住し、いくつかの小王国(七王国/ヘプターキー)を形成していました。しかし...
西ヨーロッパ世界の成立

西フランク王国の変容とカペー朝の誕生 — 弱体化した王権からフランス王国の礎へ(987〜1328年)

はじめに:名ばかりの「強大な王家」と西フランク王国の群雄割拠843年のヴェルダン条約によってフランク王国が分裂し、のちのフランスの原型となった西フランク王国。成立当初、王権を握っていたのはカール大帝の血を引くカロリング家でした。かつては「強...
西ヨーロッパ世界の成立

東フランク王国の危機から帝国誕生へ — オットー1世の偉業と神聖ローマ帝国の礎(962~1806年)

はじめに:カロリング家の断絶と東フランク王国の混迷かつてカール大帝が築いたフランク王国が分裂して生まれた東フランク王国では、911年に大きな転換期を迎えました。支配者であったカロリング家の男系血統が途絶えたのです。中央の強力な王権が失われた...
西ヨーロッパ世界の成立

外敵の侵攻と救済の祈り — 10世紀初め、クリュニー修道院の創設が西ヨーロッパをもたらした再生

はじめに:暗黒の10世紀と試練に立つ西ヨーロッパ9世紀から10世紀初めにかけての西ヨーロッパは、まさに「試練の時代」を迎えていました。かつてフランク王国を統治したカール大帝の没後、息子のルートヴィヒ敬虔帝の時代に王国は分裂に向かい、かつての...
戦国時代

織田信孝の自害と凄絶な辞世の句:秀吉に抗い続けた信長三男の悲劇

天正10年(1582年)の「本能寺の変」以降、織田家臣・豊臣秀吉(当時47歳)の台頭に最後まで抗い続けた貴公子がいました。織田信長の三男であり、伊勢神戸氏を継いで神戸信孝とも名乗った織田信孝(当時26歳)です。柴田勝家とともに反秀吉の立場を...
戦国時代

北ノ庄城の落城と柴田勝家の最期:賤ケ岳の戦いがもたらした天下の行方

織田信長の死後、後継者の座を巡って勃発した激闘「賤ケ岳の戦い」。この戦いに敗れた織田家の重臣・柴田勝家(当時62歳)は、本拠地である北ノ庄城(現在の福井県福井市)へと退却し、壮絶な最期を遂げました。のちに天下人となる豊臣秀吉(当時47歳)と...
豊臣秀吉

豪雪の足止めから「美濃大返し」へ!秀吉vs柴田勝家、天下を分けた「賤ヶ岳の戦い」全貌

本能寺の変を経て、織田信長の継承者を巡る激突となった賤ヶ岳の戦い。羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対峙したこの合戦の全貌をわかりやすく整理しました。戦いの背景と両軍の勢力(1582年〜1583年)1582年の清洲会議以降、秀吉と勝家の対立は...
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