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表史

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平安時代初期

本格的蝦夷(エミシ)征討

東北の混乱伊治砦麻呂の乱光仁天皇の時代である780年に夷俘(朝廷に帰属している蝦夷)の首長であり、伊治郡の大領(かみ/長官=郡司)であった伊治呰麻呂(いじのあざまろ/これはるのあざまろ/これはりのあざまろ)は大反乱を起こし、按察使(あぜち/...
平安時代初期

桓武天皇と長岡京と平安京の確立

桓武天皇の治世桓武天皇の即位光仁天皇の皇太子には、天武天皇系の親王である井上内親王とその子他戸親王が立ったが、藤原百川の暗躍により、光仁天皇と百済系で位の低い高野新笠(たかののにいがさ)との間に生まれた山部親王(やまべしんのう)が781年に...
隋・唐時代の繁栄

唐の文学

唐の時代は盛んに唐詩が作られる。初唐六朝時代を受け継いで、優雅なな作品が好まれた。文章形式は四六駢儷体が尊重されたが自由な形式も見られるようになった。盛唐詩仙と称される天才・李白(りはく)や詩聖と称される秀才・杜甫(とほ)が代表的である。2...
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隋・唐時代の繁栄

隋唐時代の宗教

儒教魏晋南北朝時代はそんなに発展しなかったが、科挙が始まると、これまで行われてきた訓詁学を整理する必要性が出てきた。こうした中、太宗の指示を受け、孔頴達(くようだつ/こうえいたつ)は公定注釈書である「五経正義(ごきょうせいぎ)」を編纂した。...
隋・唐時代の繁栄

唐の衰退と滅亡

安史の乱とその後の混乱節度使の反抗安史の乱に際して、唐朝は藩鎮(はんちん)をくまなく配置して、各地域の防衛の任に就かせた。長安陥落により門閥貴族は没落。門閥貴族は官人営業田という名目で広大な私有地を持っていたが、武官の節度使は計算が苦手だっ...
モンゴル民族の発展

元の成立と大都の建設-クビライのクーデタ-

元の成立モンケの死によって、後継者を決めなくてはならなくなりました。しかし、モンケの子供たちは20代と若く即位できず、モンケの弟のフレグは遠征中のため即位できませんでした。そのため、後継者はクビライ(フビライ)とアリクブケ(アリクブカ)に絞...
隋・唐時代の繁栄

安史の乱~玄宗と楊貴妃一族による政治の末路~

玄宗の晩年~楊貴妃溺愛と楊一族の優遇~天宝年間になると玄宗は政治に飽き、お気に入りの寵臣ばかり起用し、玄宗の息子の妃の絶世の美女・楊貴妃ようきひ(体重約70kg)を後宮に迎え溺愛し、政務を怠り、楊一族を要職につけた。李林甫の政治この頃、政治...
隋・唐時代の繁栄

2人の女性による唐の混乱(武韋の禍)

則天武后の政治7世紀末則天武后(そくてんぶこう)(武則天ぶそくてん)(位690~705)は,太宗の後宮(こうきゅう/皇妃が住む場所)に入り、655年に高宗の皇后となり、高宗の晩年には代わって政務を行うようになった。高宗の死後、すでに即位させ...
モンゴル民族の発展

モンケ・カン(モンケ・ハーン)

モンケの即位オゴデイ・カン(オゴタイ・ハーン)の長子、第三代皇帝グユクは即位後すぐに病弱のため、急死。ジョチ家とトゥルイ家はモンケを皇帝に推薦し、オゴデイ家とチャガタイ家はオゴデイの指定していたシレムンを推薦した。激しく対立したが、1251...
モンゴル民族の発展

バトゥの「西征(ロシア・東欧遠征)」

バトゥはまず始めに、ヴォルガ川湖畔からキプチャク(トルコ系遊牧民に由来)大草原(カスピ海、黒海、カフカスの北部一帯)を征服。1237年ルーシ(ロシア)侵攻キエフを始めとするロシア諸都市を攻略し、キエフ公国を壊滅。1241年、ポーランド・ハン...
隋・唐時代の繁栄

律令体制における民衆支配

均田制北魏から始まった土地制度。唐の均田制では、丁男(ていだん・21~59歳の男)中男(ちゅうだん、ちゅうなん・16~20歳)一代に対し、口分田(北魏~隋までの露田)を80畝(ぼ)支給し、丁男に税を課し、永業田(代々世襲・作物は主に桑、隋ま...
隋・唐時代の繁栄

中国における律令体制の成立

隋唐の国家体制を一般に律令体制(りつりょうたいせい)と呼び、法典の整備をなし、刑法の律、行政法や民法の令追加規定の格、施行細則の式が基本法典として定められた。→日本や朝鮮を始めとする東アジアの国々に多大なる影響を与えた。律令官制の中央行政機...
隋・唐時代の繁栄

唐の建国と貞観の治

唐の建国李淵(りえん)とは?太原留守の任にあった隋末の混乱の中、各地の反乱を抑えて、中国を再統一したのは李淵(りえん)・李世民(りせいみん)親子であった。関中を占領すると、李淵(高祖)が唐を建国し、都を長安に定めた。人口は100万人を超え、...
モンゴル民族の発展

オゴデイ・カン(オゴタイ・ハン)の治世

オゴデイの即位クリルタイで推されて、即位したチンギス・カンの第三子オゴデイ。対金戦争チンギス・カンの再開した対金戦争を継承し、三方(オッチギンの左翼軍、オゴデイの中央軍、トゥルイの右翼軍)から金を攻略を試みる。トゥルイvs金1232年、トゥ...
隋・唐時代の繁栄

隋の中国再統一6世紀末、北周の外戚だった楊堅が実権を握り、581年北周を倒して隋を建国しました。都を、西周・秦・漢の都が置かれた地に新しい都大興城を建設し文帝と称しました。さらに589年、南朝の陳を滅ぼし中国を久々に再統一しました。政治制度...
魏晋南北朝

道教の成立

秦・漢時代から始まり、魏・晋時代に最も盛んになった、仙人と長生不死の観念が結合した神仙思想は道教の起源をなす思想で、太平道、五斗米道にも影響を与えた。魏晋南北朝時代に流行した、無為自然を理想の生き方とする老子、莊子が説いた老荘思想が流行った...
魏晋南北朝

中国での仏教の受容

4世紀初めに西域の亀茲国から仏図澄(ぶっとちょう・ブトチンガ)が洛陽に来て、布教を行い仏寺約900所を建立し、門下生は1万人に及んだ。5世紀初めに父がインド人で亀茲国出身の僧・鳩摩羅什(くまらじゅう・クマーラジーヴァ)が長安に迎えられて、法...
魏晋南北朝

魏晋南北朝の文化

三国時代の呉~東晋・南朝までの、建業・建康を都とした江南王朝の文化を貴族文化(六朝(りくちょう)文化)という。貴族の間で、道徳や規範に縛られない趣味の世界が好まれた。文化人の間では、老荘思想の発展である清談が流行。清談家として、世俗を避けて...
魏晋南北朝

魏晋南北朝の社会~土地制度編~占田課田法・屯田制など

魏の屯田制漢時代の軍屯漢代の国境周辺で行われていた平時は農民として耕し、戦時は兵士として戦う、兵農一致の制度のことです。これを軍屯といいます。魏の民屯魏の曹操は軍屯とは別に、戦乱のため荒れた土地を国有化し、人民を募集して、耕させて、その収穫...
魏晋南北朝

魏晋南北朝の社会~官吏登用編~

官吏登用制度漢代・・・郷挙里選郷挙里選は地方の優秀な人物を官吏候補として、任命する制度であったが、豪族がいろいろな影響力を駆使して、中央に推薦させて豪族が力をもってしまい、本来とは異なるものになってしまった。魏以降・・・九品中正(九品官人法...
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