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平安時代後期鎌倉時代

播磨源氏と山田入道 〜中世播磨を席巻した一族の源流〜

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播磨源氏と山田入道 〜中世播磨を席巻した一族の源流〜

播磨国(現在の兵庫県南西部)の中世史を語る上で欠かせないのが、守護大名として君臨した赤松氏と、それを支えた強力な一族たちの存在です。彼らは総称して「播磨源氏」とも呼ばれ、その系譜をたどると「山田入道」という人物に行き着きます。今回は、播磨源氏の成り立ちと、山田入道から派生した一族の広がりについて紐解いていきます。

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■ 播磨源氏のルーツ:源季房の配流

播磨源氏の遠祖は、第62代村上天皇の皇子・具平親王から連なる村上源氏です。右大臣・源顕房の子(あるいは孫)である源季房が、天永年間(1110〜1113年頃)にゆえあって播磨国に配流されました。当時、中央の高官が播磨に流される際は、西端の佐用郡が選ばれることが慣例だったとされています。季房の後裔はそのまま播磨の地に土着し、武士団として成長していきました。

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■ 山田入道と山田則景の台頭

季房の孫にあたる季則、あるいはその子である頼則は「山田入道」と号し、後の有力氏族の直接の祖先として系図に名を残しています。また、頼範という人物も各氏族の祖として伝わります。

この系譜から登場し、一族繁栄の基盤を決定づけたのが「山田伊豆守」とも呼ばれた則景(宇野則景)です。則景は源平の争乱において源頼朝に従って平家討伐で功績を挙げ、建久年間(1190年代)には佐用荘の地頭職を獲得しました。さらに、当時の幕府の有力者であった北条義時の娘を娶ったことで、一族の格を大きく引き上げました。佐用町の西には現在も「山田」という地名が残っており、則景はそこに館を構えた豪族であったと考えられています。

■ 山田入道から派生した有力氏族たち

則景(およびその父・頼範)を起点として、播磨源氏は各地に土着し、次々と有力な氏族を派生させました。

  • 宇野氏 山田入道頼範の子である為助(または将則)を祖とします。佐用郡の宇野荘に館を構えて「宇野新大夫」を名乗ったのが始まりです。則景もこの宇野氏の本姓を名乗っていたとされます。
  • 赤松氏(惣領家) 山田則景の末子である家範が、佐用荘の赤松村の地頭代官に任じられ、「赤松」を称したのが始まりです。後に赤松円心(則村)の代に建武の新政や室町幕府の樹立で大功を挙げ、一族の惣領家(守護大名)として飛躍しました。
  • 佐用氏 則景の弟である頼景を祖とします。佐用郡佐用村に西山城を築いて拠点を構え、「佐用」を称するようになりました。
  • 小寺氏 宇野将則の長子・為頼が明石郡伊川庄に出て小寺城主となったのが始まりとされています。後に姫路城や御着城を拠点とする有力な大名・重臣へと成長しました。
  • 別所氏 少し系統は遡りますが、季則の次男である頼清が、平安時代末期の永暦元年(1160年)に加西郡在田荘別所村に住み、別所氏を称して別所城を築いたのが始まりと伝えられています。後に東播磨を支配する戦国大名となりました。
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■ おわりに

このように、山田入道(頼則・頼範)や山田則景といった人物を源流として枝分かれした一族は、室町・戦国時代を通じて強固なネットワークを形成しました。特に「別所氏」「佐用氏」「宇野氏」「小寺氏」の四家は「赤松四天王」と称され、惣領家である赤松氏の覇権を軍事・政治の両面から支え続けました。播磨の歴史は、まさに山田の地から広まったこの一族抜きには語れないと言えるでしょう。

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