平重盛による土佐支配と家人たちの入部
平安時代末期、土佐国の幡多郡・高岡郡は平清盛によって取り上げられ、その嫡男である小松内府・平重盛に与えられました。土佐を強固に支配するため、平家は重盛の家人たちを現地に派遣します。高岡郡蓮池村(現在の土佐市)には蓮池権守家綱(近藤家綱、あるいは土肥家綱とも)を、幡多郡平田村(現在の宿毛市)には平田太郎俊遠を配置し、それぞれ蓮池城と平田城を拠点とさせました。これにより、土佐国は平家方の強力な支配下に入りました。
頼朝の挙兵と源希義の討伐
治承4年(1180年)、源頼朝が東国で平家打倒の兵を挙げます。これを受けた平家は、土佐に流罪となっていた頼朝の同母弟・源希義が呼応して挙兵することを警戒し、土佐の在地領主たちに希義追討の命令を下しました。 蓮池家綱と平田俊遠は、平家の命に従うとともに自らの手柄を立てるため(功を顕わさん為)、希義の討伐に向かいます。両氏は、夜須行宗ら源氏方の勢力と合流しようと逃走する希義を吾川郡(または長岡郡)の年越山で追い詰め、見事に討ち取りました。平家方から見れば、彼らは西国における源氏の反乱の芽を未然に摘み取った有能な武将でした。
源氏の報復と平家方武将の壮絶な最期
しかし、最愛の弟を殺された頼朝の怒りは凄まじく、平家方が不利になるにつれて土佐の情勢も一変します。頼朝は寿永3年(1184年)に伊豆右衛門尉有綱(源有綱)や夜須行宗らの討伐軍を派遣し、さらに文治2年(1186年)には梶原朝景の大軍を土佐へ下向させました。 圧倒的な源氏の軍勢に対し、平家方の武将たちは最後まで抗戦します。平田俊遠は平田城(二重山)に立て籠もって奮戦しましたが、多勢に無勢でついに敗北を悟り、部下とともに城から打って出て華々しく戦死を遂げました。蓮池家綱もまた、源氏軍の攻撃を受けて討ち取られ、蓮池城を落とされました。
後世に伝えられる平家の足跡
敗者として歴史の表舞台から姿を消した蓮池氏や平田氏ですが、地元の人々はその武勇を称え、長く霊を慰めてきました。 平田城の跡地(現在の宿毛市平田町)には、俊遠ら戦死した勇士たちの霊を祭る「平田堂」が後世の人々によって建てられました。 また、蓮池城の本丸跡(現在の土佐市・城山公園)の西端には、初代城主である蓮池家綱を祀る「蓮池神社」が現在も鎮座しています。さらに、現在の土佐市蓮池町小松地区は、「小松殿」と呼ばれた平重盛の一党が落ち延びてきたことにちなんで名付けられたと伝えられており、敗れ去った平家の記憶が今も土佐の地に息づいています。





コメント