■ 頼朝の弟・源希義の土佐配流
源平合戦といえば一ノ谷や壇ノ浦などが有名ですが、四国の土佐国でも源氏と平家による激しい争いがありました。その中心となったのが、源頼朝の同母弟である源希義(みなもとのまれよし)と、土佐を支配していた平家方の豪族・蓮池家綱らです。 平治元年(1159年)の平治の乱で父・源義朝が敗死すると、兄の頼朝は伊豆の蛭ヶ小島へ流罪となり、当時まだ3歳(数え年)だった弟の希義は土佐国長岡郡介良(けら)荘(現在の高知市介良)へと配流されました。当時の土佐国は平重盛の知行国であり、平家は高岡郡蓮池村に蓮池権守家綱を、幡多郡平田村に平田太郎俊遠を配置して強固に支配していました。希義は「土佐冠者(とさのかじゃ)」と呼ばれ、平家方の厳しい監視の下で成人することになります。
■ 頼朝の挙兵と希義の脱出
治承4(1180)年、兄の頼朝が打倒平家を掲げて東国で挙兵すると、土佐の情勢も一気に緊迫します。平家方は、希義が兄に呼応して兵を挙げることを恐れ、蓮池家綱や平田俊遠らに希義の討伐を命じました。 この動きを察知した希義は、かねてから源氏再興の密約を交わしていた土佐の数少ない源氏方の武将・夜須行宗(やすゆきむね)と合流するため、介良城を脱出して夜須荘(現在の香南市夜須町)へ向かいます。
■ 年越山の悲劇
希義は夜須荘を目指して東へ逃走しましたが、長岡郡年越山(現在の南国市・鳶ヶ池中学校付近)にて、蓮池家綱と平田俊遠の追手に追いつかれてしまいます。希義はここで無念の討死を遂げました(時期については治承4年説と寿永元年説があります)。救援に駆けつけようとしていた夜須行宗は、途中の野宮(ののみや)付近で希義敗死の知らせを聞き、合流は間に合いませんでした。
■ 頼朝の怒りと蓮池氏・平田氏の掃討
間一髪で海上に逃れた夜須行宗は、紀伊国を経て鎌倉の頼朝のもとへ馳せ参じ、希義の死を涙ながらに報告しました。最愛の弟の死を知った頼朝は深く悲しみ、寿永3年(1184年)に源有綱を大将とし、夜須行宗を先導とする大軍を土佐へ派遣します。この源氏の討伐軍により、蓮池家綱や平田俊遠ら土佐の平家勢力は激戦の末に殲滅され、希義の仇が討たれました。
■ その後の物語と遺児伝説
希義の遺骸は平家の威光を恐れて放置されていましたが、介良荘の僧・琳猷(りんゆう)上人が引き取り、手厚く葬って供養を続けていました。のちに琳猷上人は希義の遺髪を持って鎌倉に赴いて頼朝と対面し、頼朝の庇護によって希義の墓所に菩提を弔う「西養寺」が建立されました。 また、伝説によれば、希義の死後に生まれた遺児「希望(まれもち)」は頼朝に取り立てられて吾川郡弘岡の地を与えられ、のちの戦国時代に「土佐七雄」の一つとなる土佐吉良氏の祖になったと伝えられています。





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