天武天皇の長男・高市皇子の生涯と功績
高市皇子(たけちのみこ/たけちのおうじ)は、天武天皇(大海人皇子)の第一皇子(長男)として生まれました。母は筑前の豪族・宗形徳善(むなかたとくぜん)の娘である尼子娘(あまこのいらつめ)です。大和国高市郡で育ったことがその名の由来とされています。
高市皇子が歴史の表舞台で最も活躍したのは、古代日本最大の内乱である「壬申の乱」(672年)です。当時18歳ほどだった彼は、近江大津京を脱出して吉野にいた父・大海人皇子と合流し、美濃国の不破関で軍事の全権を委ねられました。高市皇子は父の軍勢の中核として諸将を率い、壬申の乱を勝利へと導く極めて重要な役割を果たしました。
母親が皇族ではなかったため、当初は皇位継承の最有力候補ではありませんでしたが、異母弟である大津皇子の自害や草壁皇子の早世などの後、持統天皇(天武天皇の皇后)の治世において太政大臣に任じられました。以後、696年に亡くなるまで、天皇と皇太子を除く皇族・臣下の最高位として政権を支え続けました。『万葉集』には、十市皇女(天智天皇の娘)への情熱的な挽歌を残しているほか、彼が亡くなった際には柿本人麻呂から万葉集最長となる壮大な挽歌が捧げられており、その絶大な権威と人柄がうかがえます。
奈良県「高市郡」と古代豪族
高市皇子の名の由来となった奈良県の「高市郡」は、『日本書紀』や大宝律令の頃から存在する由緒ある地名です。古代には高市県(たけちのあがた)と呼ばれ、高市県主(たけちのあがたぬし)という氏族が本拠としていました。
壬申の乱の際、高市氏の高市許梅(たけちのこめ)が神懸かりし、天武天皇の軍勢に神託を与えて勝利に導いたという逸話が残されており、高市という地と天武天皇は深い関係にありました。この地は出雲系に由来する豪族(鴨氏など)が治め、祭祀を行っていた場所ではないかとも考えられています。
高市早苗氏は高市皇子の末裔なのか?
奈良県選出の政治家である高市早苗氏について、「高市という名字や奈良出身であることから、高市皇子の末裔(子孫)ではないか」という見方や噂が一部で存在します。
しかし、歴史的・系譜的な観点から見ると、皇族には本来「名字」や「姓(カバネ)」が存在しません。高市皇子の「高市」も名字ではなく、育った地名に由来する呼称です。高市皇子の長男である長屋王の子孫など、直系の子孫は後に「高階(たかしな)氏」などの姓を賜って臣籍降下しており、「高市」という名字をそのまま受け継いだわけではありません。
また、「高市」という名字自体は地名に由来する地名姓であり、現在では奈良県内には「高市」という名字は極めて少ないことが分かっています。
伊予国(愛媛県)に繋がる「高市氏」のルーツ
それでは高市早苗氏の「高市」という名字のルーツはどこにあるのでしょうか。実は、現在の「高市」姓の半数以上は愛媛県に集中しています。
高市早苗氏ご自身は奈良県のご出身ですが、ご両親は愛媛県の出身であるとされています。愛媛県における「高市」のルーツは、伊予国越智郡高市郷(現在の愛媛県今治市)にあり、古くは「たけち」と読まれていました。
伊予の高市氏は越智氏から派生した一族であり、伊予郡に進出して国侍として成長しました。また、壬申の乱で天武天皇側について活躍した県犬養三千代(橘氏)や、その系譜を継ぐ新居氏といった豪族とも関わりが深いとされています。
このように、高市早苗氏が直接的に高市皇子の血筋を引いているという明確な根拠はありませんが、氏のルーツと考えられる「伊予の高市氏」の周辺氏族も、高市皇子と同じく壬申の乱で天武天皇側に味方し活躍したという歴史的な共通点を持っています。そして、700年代の人物である高市皇子の血脈(DNA)は、長い歴史の中で多くの日本人に受け継がれており、現代の日本人の多くが遠い親戚として繋がっているとも言えるのです。

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