高市氏の出自と伊予郡への進出
高市氏(たけち氏)は、伊予国の有力な在庁官人であった越智為世の4人の子息のうち、国成の流れを汲む一族です。当初は越智郡高市郷を名字の地としていましたが、のちに道後平野南部の伊予郡へと進出しました。同郡の三谷郷(現在の伊予市)などに居館を構えて付近一帯を支配し、伊予国における有力な開発領主(国侍)へと成長していきました。
平清盛と結んだ密接な関係
高市氏は、中央で権力を握る平家政権と極めて密接な関係を築いていました。国成の孫にあたる高市盛義は、平清盛から偏諱(「盛」の字)を与えられ、「太上入道清盛鳥帽子子」と称されるなど、清盛と擬制的な親子関係を結んでいました。
さらに、盛義の息子である清義は「武者所 本滝口」と記録されており、朝廷の滝口の武士や院の武者所として勤仕していたことが分かっています。この清義は、『平家物語』の一ノ谷の合戦において平氏方として奮戦した「武知の武者所清教」と同一人物と考えられています。
治承・寿永の乱と河野氏との激闘
治承・寿永の乱(源平合戦)が勃発すると、源氏方に与した河野氏(河野通清・通信)が伊予国で挙兵しました。一貫して平氏方として行動した高市氏は、同じ伊予の国人である河野氏と激しく対立することになります。
1185年(元暦2年)1月、源氏方の河野通信は、伊予郡三谷郷にあった高市秀儀の居館(三谷館)を襲撃しました。秀儀は200余騎を率いて防戦したものの力及ばず、主従24人とともに自害して果てました。
この知らせを聞いた秀儀の父・俊儀は、自身の拠点である吾川館から逃れて「鴛小山城(おしこやまじょう)」に立て籠もりました。しかし、俊儀も無勢のため城を保ちきれず、ここでも敗れて平家勢の拠点であった讃岐国の屋島方面へと逃亡しました。
逃亡の果ての開拓と「高市」の地名
讃岐へと逃れたとされる俊儀ですが、別の伝承も残されています。それによれば、吾川館の小山城を脱出した高市俊儀主従は、浮穴郡の深い山中へと逃げ込んで百姓となり、その地を開拓して住居を構えたと伝えられています。この出来事が、現在の愛媛県伊予郡広田村高市(現・砥部町高市)の「高市」という地名の由来になったとされています。
悲話「五色浜の伝説」と高市氏
伊予市の名勝である「五色浜」には、**「平氏の5人の姫君が身を投げた」**という悲しい伝説が残されています。
この伝説は、直接的に平家の姫君の出来事として語られていますが、歴史的な背景を考慮すると、平氏と極めて密接なつながりを持ち、源平合戦において平氏方として戦い敗れ去った高市氏一族の悲劇にかかわって伝えられたものであろうと推測されています。平家一門の没落と運命を共にし、居館を追われ自害や逃亡を余儀なくされた高市氏の無念が、この美しい五色浜の伝説に仮託されて今も語り継がれているのです。
まとめ
伊予の有力者として平家政権と結びつき、独自の権力基盤を築いた高市氏でしたが、源平の動乱と鎌倉幕府の成立という歴史の波に飲まれ、表舞台からは姿を消しました。しかし、彼らの足跡は「高市」の地名や「五色浜の伝説」といった形で、地域に深く刻み込まれています。





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