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平安時代後期

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院政が行われていた頃。上皇が権力握っていた頃。

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平安時代後期

播磨源氏と山田入道 〜中世播磨を席巻した一族の源流〜

播磨源氏と山田入道 〜中世播磨を席巻した一族の源流〜播磨国(現在の兵庫県南西部)の中世史を語る上で欠かせないのが、守護大名として君臨した赤松氏と、それを支えた強力な一族たちの存在です。彼らは総称して「播磨源氏」とも呼ばれ、その系譜をたどると...
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土佐平家方の視点から見る源平合戦~蓮池氏・平田氏の興亡~

平重盛による土佐支配と家人たちの入部平安時代末期、土佐国の幡多郡・高岡郡は平清盛によって取り上げられ、その嫡男である小松内府・平重盛に与えられました。土佐を強固に支配するため、平家は重盛の家人たちを現地に派遣します。高岡郡蓮池村(現在の土佐...
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土佐源氏の中心である源頼朝の同母弟・源希義(みなもとのまれよし)と、彼を支えた人々

頼朝の同母弟「土佐冠者」の配流生活源希義は源義朝の五男で、頼朝と同じ由良御前を母に持つ同母弟です。平治の乱(1159年)で父や兄が敗死した後、駿河国で捕縛され、土佐国の介良(けら)荘(現在の高知市介良)へと流罪になりました。当時の彼はまだ幼...
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土佐の源平合戦:悲劇の若武者・源希義と平家方・蓮池氏の激闘

■ 頼朝の弟・源希義の土佐配流 源平合戦といえば一ノ谷や壇ノ浦などが有名ですが、四国の土佐国でも源氏と平家による激しい争いがありました。その中心となったのが、源頼朝の同母弟である源希義(みなもとのまれよし)と、土佐を支配していた平家方の豪族...
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平家と共に生きた越智氏の末裔「伊予高市氏」の盛衰と伝説

高市氏の出自と伊予郡への進出高市氏(たけち氏)は、伊予国の有力な在庁官人であった越智為世の4人の子息のうち、国成の流れを汲む一族です。当初は越智郡高市郷を名字の地としていましたが、のちに道後平野南部の伊予郡へと進出しました。同郡の三谷郷(現...
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阿波藤原家と藤原広長:鹿ケ谷の陰謀に散った一族の歴史

阿波藤原家(近藤氏)の台頭と西光阿波藤原家(近藤氏)の躍進は、平安時代後期の官人である西光(俗名:藤原師光)の存在抜きには語れません。西光はもともと阿波国の豪族・麻植為光の子であり、板野郡吉野町柿原(現在の阿波高等学校の敷地内)を拠点とする...
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平氏の有力家人・阿波民部大夫重能

阿波民部大夫重能とは?平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した阿波の豪族です。阿波民部大夫重能は平氏方の有力家臣として活躍しました。 美濃・尾張の源氏方と合戦「玉葉」治承5年(1181年)2月29日条 「伝え聞く。尾張之賊徒等少々、美乃...
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治承・寿永の乱(源平合戦)と平家の滅亡

平清盛と安徳天皇1180年安徳天皇が即位します。安徳天皇とは?安徳天皇は平清盛の娘である建礼門院徳子を母に持ち、後白河法皇の皇子、高倉天皇を父に持つ。平氏追討の令旨後白河法皇の第2皇子、以仁王(もちひとおう)が、平氏追討の令旨(りょうじ)を...
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平氏没落を早めた「鹿ヶ谷の陰謀」

以前、平氏政権の全盛~この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし~で平氏が官職の独占によって、全国の支配をはかりました。しかし、独占によって、旧勢力である追いやられた公家勢力から強い反発を受けることになります。建春門院の死去平清盛の妻の姉妹で...
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日宋貿易について~音戸の瀬戸・大輪田の泊・誰が?・輸出入品~

平氏は平忠盛以降、日宋貿易にも力を入れだします。平忠盛の政治日宋貿易の背景11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来が活発となり、12世紀に層が北方の女真の立てた金に圧迫されて、南に移ってからは南宋との通商も盛んに行われるようになっ...
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平氏政権の全盛~この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし~

平清盛の政治~六波羅政権~平清盛が平治の乱に勝利して、六波羅政権を確立します。実は平清盛の前に、一族の土台がちゃんとありました。六波羅政権平清盛は1167年に武士として最初の太政大臣となりました。政庁や一族の居宅を六波羅に構えたので、平氏政...
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平治の乱と平氏政権への道

前回、伊勢平氏の発展と保元の乱で、勝った側の武士同士の対立が戦いの原因となりました。では、今回の平治の乱をみていきましょう。平治の乱の背景後白河天皇の譲位と院政の開始保元の乱のあと、1158年(保元3年)に後白河天皇は、二条天皇に譲位し、後...
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伊勢平氏の発展と保元の乱

伊勢平氏の発展桓武平氏と伊勢平氏の関係性平忠常の乱よりあとのこと源氏に立場は取って代わられてしまい桓武平氏一族は散り散りになってしまいました。関東に残った桓武平氏の中には、源氏の家人となるものもいたそうです。平将門の乱で功績があった平貞盛の...
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仏教の衰退と大寺院の僧兵による荘園争奪戦

白河上皇の天下三不如意の中には、山法師というのが入っていました。これは延暦寺の僧兵だといいました。つまり、天台宗の総本山延暦寺でさえ、僧兵を使ってでも、収入をとりもどさなければならないほど、仏教的な権威が衰退していたということです。今回は、...
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院政の構造~院政を支える仕組み~

院政の構造をこれから書いておきます。摂関政治で栄華を極めた藤原氏から天皇を退いた院(上皇)に権力が集中していく院政。どのような仕組みだったのでしょうか。院政の政庁院政がおこなわれたのは院庁(いんのちょう)です。その政庁ではたらいていた職員を...
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白河上皇の院政の開始

白河天皇時代白河天皇は1072年に即位した後、1086年に位をおります。はじめて院政を執り行いました。(院政についてはのちほど)法勝寺(六勝寺の1つ)白河天皇は仏教に篤く、院政時までに"〇勝寺"を6つ建立します。法勝寺はその1つで、現在の京...
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武士団の結成~武士の台頭と貴族の衰退のはじまり~

前回、の続きです。武士団つわもの(兵)都では、武力で朝廷に仕える人々があらわれました。地方でも、有力農民や地元の公の職に勤める在庁官人と呼ばれる人々のなかに、武装するものもあらわれてきました。こうした人々を兵(つわもの)とよびます。武士団兵...
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荘園公領制~1国2制度~

収入源である公領前回の、により、貴族や寺社の所有する荘園と、国司が支配する公領(こうりょう/国衙領/こくがりょう)にわかれました。律令税制の崩壊国家財政は租庸調を基本とする律令税制でやってきていました。班田制が崩壊したために、収入源が減って...
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後三条天皇による「延久の荘園整理令」

藤原道長の子、藤原頼通と藤原教通には子どもができませんでした。そんな中、藤原氏と血縁関係が薄い後三条天皇が即位します。後三条天皇は藤原氏の荘園を減らし、藤原氏の勢力を減らすために、荘園整理令を出します。藤原氏の摂関政治は力を失っていきます。
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