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平安時代後期

阿波藤原家と藤原広長:鹿ケ谷の陰謀に散った一族の歴史

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阿波藤原家(近藤氏)の台頭と西光

阿波藤原家(近藤氏)の躍進は、平安時代後期官人である西光(俗名:藤原師光)の存在抜きには語れません。西光はもともと阿波国の豪族・麻植為光の子であり、板野郡吉野町柿原(現在の阿波高等学校の敷地内)を拠点とする在庁官人でした。その後、中納言・藤原家成の養子となり、信西(藤原通憲)の家来として仕え、平治の乱の後に信西が命を落とすと出家して西光と名乗りました。

西光はやがて後白河法皇に仕え、「第一の近臣」と呼ばれるほどの権力を握りました。この西光の力を背景に、彼の一族は「近藤氏」を称して阿波国の在庁官人として台頭していきます。しかし、この勢力拡大は、阿波において平家と結びついて権力を誇っていた粟田氏(田口氏)の田口成良の一族と激しい対立を生むことになりました。

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鹿ケ谷の陰謀と一族の没落

安元3年(1177年)6月、京都の東山鹿ヶ谷にあった山荘で、平家打倒の謀議が行われました。これが世に言う「鹿ケ谷の陰謀」です。西光はこの陰謀の首謀者の一人として、藤原成親や俊寛らと共に暗躍しました。

しかし、同調者の一人であった多田行綱の密告により、この企ては平清盛の知るところとなります。激怒した清盛によって西光は捕縛され、凄惨な拷問を受けた末に、口を切り裂かれて斬首されました。さらに、彼の二人の息子や郎党たちも共に処刑され、阿波藤原家は中央での有力な後ろ盾を失うことになります。

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藤原広長と柿原政庁(広長城)の悲劇

西光の四男である藤原広長(近藤広長)は、父が京都で暗躍していた間、阿波国の柿原(広長城、あるいは柿原政庁と呼ばれる)に留まり、西光の留守を守っていました。

鹿ケ谷の陰謀が露見し、西光が惨殺された後、平清盛は代官であり四国における平家方の総大将であった田口成良(桜間城主)に、西光の本拠地である柿原を襲撃するよう命じました。強大な田口氏の軍勢に攻め込まれた藤原広長は、追い詰められた末に宮川内谷で自刃し、悲運の最期を遂げました。

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後世に遺された「広長」の記憶と源平合戦の帰結

藤原広長が無念の死を遂げた地は、現在でも徳島県阿波市吉野町柿原ヒロナカと呼ばれており、彼の名が地名として残されています。かつての広長城(西光屋敷)の跡地は現在の阿波高等学校の敷地内となっており、同校のグラウンドには「西光屋敷」の石碑が建てられています。

一族を滅ぼされた近藤氏の平家および田口氏への恨みは深く、その後の源平合戦において歴史を動かす要因となりました。源義経が平家追討のために阿波へ上陸した際、義経を道案内し、桜間城をはじめとする平家方の拠点の攻略を手引きしたのは、西光の六男であり藤原広長の兄弟にあたる近藤六親家でした。親家の手引きにより義経軍は阿波の平家勢力を打ち破り、やがて屋島の戦い、壇ノ浦の戦いを経て平家は滅亡へと向かうことになります。

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