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太古時代

イザナギの「奴国」建国と4人の子供たち~金印の謎と建国の大英雄~

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伊都国を降伏させ、広大な福岡平野(瑞穂の国)を次々と制圧していった大伽耶(だいかや)国の王子・イザナギ。 彼の次なる偉業は、博多湾岸に自らの直轄地として巨大な王国を打ち立てることでした。

この記事では、イザナギによる「奴国(なこく)」建国の真実と、そこで誕生した「4人の子供たち(のちの日本の神々)」について、歴史のダイナミズムを交えて解説します。

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福岡平野の平定と「奴国(なこく)」の誕生

福岡平野を制圧したイザナギは、この地に「な国(奴国)」を建国しました。 「な国」とは、古代の言葉で「広々とした平野」を意味します。イザナギは「小戸(おど)」に都を置き、ここを自らの直轄領として支配しました。

この奴国の領域は、現在の福岡市の全域に及びます。のちに書かれた中国の歴史書『魏志倭人伝』によれば、奴国は「2万戸」を擁する大国であったと記録されており、当時の人口に換算すると約10万人もの人々が住む巨大な国家へと成長することになります。 かつてイザナギが福岡平野に定めた「七県(なながた)」という行政区画が徐々に成長し、発展して形成されたのが、この「奴国」だったのです。

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「漢委奴国王」の金印は奴国のものではない?

ここで、日本の古代史における有名な謎に触れておきましょう。 江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は、西暦57年に後漢の光武帝から「奴国」の王が授かったものだとする説が、近世以降の考古学で語られてきました。この説に従えば、奴国は紀元1世紀の初めから博多湾岸に大国として存在していたことになります。

しかし、歴史の真実は異なります。1世紀の段階で、博多湾岸に大国としての奴国が存在していた証拠はどこにもありません。 『魏志倭人伝』において「代々王がいる(世々王有る)」と明確に記されているのは「伊都国」です。すなわち、後漢から金印を授かり、1世紀から2世紀にかけて北部九州を支配していたのは伊都国であり、奴国は紀元3世紀初頭にイザナギによって建国されたばかりの新興国家だったと考えるのが自然なのです。

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イザナギとイザナミの間に生まれた4人の子供たち

奴国建国が進む中、イザナギと妻・イザナミの間には、のちの日本古代史の主役となる4人の子供たちが誕生していました。

  • 長男:ヒルコ(彦) 紀元203年頃に誕生。神話では「足が立たない子で海に流された」と悲劇的に描かれますが、実際には「彦(男性の貴人)」を意味します。彼は3歳で本国である大伽耶国へ太子(跡継ぎ)として帰国し、のちに大伽耶国王(長沙)となりました。
  • 長女:アマテラスオオカミ(天照大神) 紀元205年頃に誕生。彼女こそが、のちに邪馬台国の女王として君臨することになる**「卑弥呼」**その人です。
  • 次男:ツクヨミノミコト(月読尊) 紀元207年頃に誕生。姉である卑弥呼(アマテラス)の政治を補佐し、高天原(邪馬台国)の屋台骨を支えることになります。
  • 三男:スサノオ(素戔嗚尊) 紀元209年頃に誕生。神話では乱暴者として描かれますが、幼い頃は泣き虫でした。彼はのちに新羅へ人質として送られるなど、数奇な運命を辿ることになります。

彼ら4人は、まさに筑紫島(九州)を舞台に新たな歴史を創り上げていくことになります。

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止まらないイザナギの征服欲

奴国を建国し、強力な拠点を築き上げた後も、イザナギの進撃は止まりませんでした。 彼は一息つく暇もなく、那珂川や御笠川、多々良川をさかのぼり、さらなる南の奥地へと遠征を続けました。新たな敵と対峙してはこれを撃破し、容赦なく国土を拡張していくことに余念がなかったのです。

源頼朝や足利尊氏、織田信長といった後世の英雄たちにも決して引けを取らない、まさに「国家の創業者」にして「古代の大英雄」と呼ぶにふさわしい凄まじいエネルギーが、イザナギには満ち溢れていました。彼のこの貪欲な征服活動によって、のちの「邪馬台国」の巨大な版図が形成されていくことになります。

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