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平安時代中期

平安時代の国際関係と刀伊の入寇

9世紀から10世紀にかけての東アジアの動乱の結果、日本は積極的な孤立政策をとるようになる。安史の乱などによって荒れ果てた中国には訪れる意味はなく、宋の時代になっても国交は開かれなかった。しかし、民間の貿易は盛んになっていった。  また、女真族が攻めてくるこれを刀伊の入寇という。
弥生時代

邪馬台国連合

3世紀の日中関係晋の陳寿が編纂した「三国志」『魏書』東夷伝倭人条(とういでんわじんのじょう)(魏志倭人伝)によると、約30の小国の連合体が倭に存在し、中国に朝貢を行っていた。ちなみに三国とは魏呉蜀のことである。邪馬台国倭で約30カ国の盟主と...
宋の中央集権化

南宋の成立と金の繁栄

宋の南遷北宋の滅亡のとき、徽宗の第9子で、欽宗の弟の趙講は、金軍との交渉で、首都開封を離れていた。そのため、金に北へと拉致されずにすんだ。1127年5月に南京応天府で南宋・初代皇帝高宗として即位。健炎と改元する。(宋は五行思想によると火属性...
宋の中央集権化

靖康の変と北宋の滅亡

靖康(せいこう)元年(1126年)の冬、金は宋のこれまでの嘘や約束違反を責めて、開封を占領。莫大な財貨や芸術品とともに、上皇徽宗や皇帝欽宗、宗室や官僚総勢約3000人が北に拉致された。これを年号をとって靖康の変(せいこうのへん)という。北宋は滅亡した
宋の中央集権化

西夏(せいか)

唐末、黄河が曲がるオルドス地方で発生したチベット系民族がタングート族で東西交通の要衝の地である敦煌を押さえて、その利益で強大化した。初めの頃、太祖(趙匡胤)はオルドス方面に対して、羈縻政策(ゆるくつなぎとめる支配)を行っていたが、982年、...
宋の中央集権化

耶律阿保機の遼(大契丹国)建国から滅亡と西遼まで

遼の成立北アジアに強大な勢力をふるっていたトゥルク系のウイグルは、840年にイェニセ川上流のキルギスにより崩壊して、西遷します。これは北アジアの民族交替を意味します。ウイグル人からキルギス人へと変わっていきました。この間に現れたのがモンゴル...
宋の中央集権化

宋の外交的敗北~澶淵の盟と慶暦の和約~

文治主義の結果、宋は対外的な軍事力が下がり、そのため、北方や西方から遊牧民が絶えず、やってきては侵入することに対し、常に守勢となった。つまり、対外的には消極的だったということである。1004年契丹族の遼と澶淵(せんえい)の盟を結ぶ 莫大な歳...
宋の中央集権化

宋の建国と中国統一とその政策

趙匡胤らの中国再統一960年、後周の部将で親衛隊長である節度使・趙匡胤(ちょうきょういん)が人望があり、部下の将兵に推されて、後周の皇帝世宗の死後、遼の侵入の危機の中、恭帝から禅譲されて、宋(北宋)を建国。皇帝(太祖)に即位。大運河と黄河の...
魏晋南北朝

三国時代

後漢末、華北で184年黄巾の乱を契機に,反乱が各地に起こり、地方の治安は著しく悪化した。このような中で、後漢は豪族に官位を与えて,地方の安定を図ろうとした。その中の成功者は空華北の魏の基礎を築いた曹操と江南の呉の建国者孫権と四川の蜀を建てた...
古代インド・東南アジア

ベトナム北部の古代史-ドンソン文化・南海三郡・大越など-

ベトナム先史時代畑作文明に生まれた黄河文明に対して、長江流域の稲作地帯には越人が住んでいた。越人は呉・越・楚などの国を建国し、南下して青銅器〜鉄器文化を北ベトナムに伝えた。青銅の太鼓の銅鼓(どうこ)を代表とするこの文化は遺跡の名をとってドン...
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