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昭和時代初期

第1次若槻礼次郎内閣の政治-大蔵大臣の失言と金融恐慌-

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第1次若槻礼次郎内閣は
三菱と結んだ憲政会を与に組閣しました。

外務大臣は協調外交路線をすすめた幣原喜重郎です。

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金融恐慌(1927年)

第52回議会の開会中に、
震災手形理2法案の審議中において、
片岡直温大蔵大臣が「銀行は破綻した」とのを失言してしましました。

渡辺銀行の経営は確かに危うかったのですが、
それでもまだ営業はできていました。

しかし、大蔵大臣による「失言」によって、
どうしようもなくなりました。

その結果、銀行から国民が預金を引き降ろそうと殺到し、
国中経済が大混乱に陥りました。

これが金融恐慌です。

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台湾銀行救済勅令とその否

鈴木商店の倒産

鈴木商店は樟脳で大儲けしていた商店です。
鈴木商店はこの金融恐慌のあおりを受けて、
倒産してしまいました。

樟脳
樟脳とはクスノキなどを加工してとれる防虫剤の綿のことです。

台湾銀行の休業

台湾銀行は鈴木商店に融資していました。
台湾銀行の融資額の半分は鈴木商店でした。

融資していたお金が返ってこなくなる不渡の状態になり、
台湾銀行も休業に追い込まれました。

華族銀行の休業

第十五銀行とも称される華族銀行も休業に追い込まれました。

台湾銀行救済勅

そこで政府は台湾銀行を救済する法案を提出します。

しかし、枢密院反対により否決しました。

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若槻礼次郎内閣の退陣

枢密院は幣原喜重郎内閣の国際協調路線に不満をもっていました。
今回、枢密院は若槻礼次郎内閣を退陣させ、政友会に政権交代させたかったのです。その口実と取引に使われたのでした。

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5大銀行への集約

金融業界は結果として、
三井・三菱・安田・住友・第一の五大銀行が
ビッグファイブとして金融界を配するようになりました。

 

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