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昭和時代初期

田中義一内閣の金融恐慌収拾-モラトリアム3週間-

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昭和時代初期
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金融恐慌の混乱と田中義一内閣の誕生

1927年(昭和2年・丁卯)、日本経済は非常に厳しい状況に直面していました。
大蔵大臣の発言がきっかけとなり、全国で金融恐慌が起こります。銀行に預金を引き出そうと多くの人が押しかける「取り付け騒ぎ」が広がり、当時の政府であった若槻礼次郎内閣はこの混乱に対応できず、結局総辞職へと追い込まれてしまいました。

(前回の記事:【金融恐慌とは】大蔵大臣の失言が引き金に!若槻礼次郎内閣が倒れた昭和恐慌の始まりをわかりやすく解説

この厳しい時期に、新たな内閣を組織したのが立憲政友会の総裁、田中義一(たなか ぎいち)でした。
陸軍出身である田中は、経済危機に立ち向かうため、政府の財政を担当する大蔵大臣にある有名な人物を起用します。
それが数々の経済危機で活躍した高橋是清(たかはし これきよ)です。

高橋是清を説得する田中義一の様子

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起死回生の一手!「モラトリアム3週間」

新しく大蔵大臣となった高橋是清が直面したのは、銀行への信頼が大きく揺らいでいるという重大な問題でした。
多くの人が一気に預金を下ろしてしまい、銀行は現金不足でどんどん倒産しかけていたのです。

この「パニック」を抑えるため、高橋是清が打ち出した思い切った政策がモラトリアム(支払猶予令)でした。

モラトリアムって何?
モラトリアムとは、政府が法律に基づいて「支払いをしばらく待ってください」と命じる特別な政策です。金融分野では「支払猶予令」とも呼ばれます。
全国の銀行を一時的に休ませ、預金の払い戻しを数週間ストップするという内容でした。
これによって預金を下ろせる時間がなくなり、銀行の現金流出が強制的に止まります。急な混乱を落ち着かせる「時間稼ぎ」として利用されたわけです。

1927年4月22日、政府はモラトリアムを緊急勅令で出し、
全国の銀行は2日間の休業、そして引き続き3週間にわたり預金の払い戻し猶予という措置が取られました。

また、もう一つ重要な対策が行われました。
それは、日本の中央銀行である日本銀行が、資金の足りなくなった銀行に大量の資金を「非常貸し出し」として融通したことです。
このとき、紙幣が足りなくなり、急きょ裏面だけの二百円札が出回ったというエピソードも伝えられています。

こうした大胆ともいえる措置により、「取り付け騒ぎ」は徐々に静まり、
モラトリアムの3週間が終わるころには、金融市場にも次第に落ち着きが戻りました。

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恐慌の収拾と変化する経済の姿

高橋是清の決断により、金融恐慌は一時的に沈静化したと考えられています。
しかし、この緊急対応には影響も残りました。

体力に乏しかった地方の小さな銀行は、モラトリアムの間に経営が悪化し、休業や倒産に至った銀行も少なくなかったようです。
一方、大きな資本を持つ四大財閥三井三菱住友安田)の銀行は危機をしのぎきり、倒産した銀行を吸収したことで金融界での力を強めました。

これにより、日本の銀行や企業は少数の大きな資本グループへ集中していく流れが加速したとする説が有力です。
また、こうした財閥は中国大陸にも進出し、紡績工場(在華紡)の建設など、海外での活動も活発になっていきました。

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まとめ

田中義一内閣は、経験豊富な高橋是清を財政の要に迎え、
モラトリアムによって金融恐慌のパニックを沈静化させます。
この対応は高く評価されていますが、同時に財閥による経済の集中化が進み、日本経済の格差が広がった原因の一つになったとも考えられています。

田中義一内閣はこの大きな国内問題を乗り越えましたが、続いて中国への対応など、新たな外交問題にも目を向けていくことになります。
その外交路線が、後に大きな事件を呼び、再び政局を揺るがすことになりました。

(関連記事)
* 田中義一内閣の政策をわかりやすく解説
* 張作霖爆殺事件の結末|昭和天皇の激怒と田中義一内閣の総辞職


参考文献
・新版 昭和史 1926-1945(半藤一利、平凡社)
・昭和天皇独白録(寺崎英成・マリコ=テラサキ=ミラー 編、文藝春秋)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。

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