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昭和時代初期

【金融恐慌とは】大蔵大臣の失言が引き金に!若槻礼次郎内閣が倒れた昭和恐慌の始まりをわかりやすく解説

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昭和時代初期
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はじめに

第一次世界大戦後の景気も落ち着き、1923年(大正12年)に発生した関東大震災からの復興も思うように進んでいなかった日本。
こうした不安定な経済状況の中、第1次若槻礼次郎内閣が誕生します。

この内閣の時代に、日本経済そのものを大混乱に落とし入れるできごとが起こりました。
それが1927年(昭和2年・丁卯)に起きた「金融恐慌」です。
この金融恐慌は、昭和初期を代表する経済危機=昭和恐慌のはじまりとなった出来事でもありました。

この記事では、一人の大臣の「失言」が、どのようにして経済全体を揺るがすパニック(取り付け騒ぎ)につながり、昭和恐慌の幕開けとなったのかについて、高校生にもわかりやすく全体の流れを整理します。

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金融恐慌の引き金は片岡大蔵大臣の「失言」

1927年(昭和2年・丁卯)3月14日第52回帝国議会での出来事です。
この時、日本経済が直面していた大きな問題のひとつが「震災手形」でした。

震災手形とは?
1923年(大正12年)の関東大震災で多くの会社が被災し、経営難に。政府は銀行と企業を救うため、特別な「手形」(借金証書)を銀行が発行、それを日本銀行(中央銀行)が特例で買い取ることで資金繰りを助けました。ですが震災から数年たっても経営は思うように回復せず、返済できない「不良手形」が大量に残ってしまっていました。

震災手形をどう処理するか国会で議論していた最中、片岡直温(かたおか なおはる)大蔵大臣が思わぬ発言をします。

片岡直温

片岡直温 大蔵大臣

本日正午、東京渡辺銀行がとうとう破綻いたしました。

実際にはこのとき、東京渡辺銀行の経営は危うかったものの、「破綻」と断言できる状態ではありませんでした。
しかし国の財政トップである大蔵大臣が「破綻した」と断言した影響は計り知れません。

ニュースが伝わると、取り付け騒ぎが起きます。
多くの人が「銀行につぶれられたら、お金が戻ってこない!」と感じて集まり、一斉に預金を引き出し始めたのです。
大蔵大臣の失言が、金融恐慌の直接的な引き金(=火種)になったと考えられています。

銀行の前に預金を引き出そうと人々が殺到する様子

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取り付け騒ぎから連鎖する倒産・金融危機

取り付け騒ぎで信用を失った銀行の中には、本当に支払いができなくなり倒産したり、休業に追い込まれるところが次々に出ました。
このパニックは金融業界を超えて大企業や植民地経済にも広がっていきます。

大商社・鈴木商店の倒産

当時、日本でも有数の総合商社だった「鈴木商店」。
樟脳(しょうのう)や石油など多くの分野に進出する一方、事業拡大のため多額の銀行融資に頼っていました。

豆知識:樟脳(しょうのう)とは?
クスノキから取り出す爽やかな香りの白い結晶で、衣類の防虫剤やセルロイドなどの製品として当時の日本の主力輸出品でした。

金融恐慌によって貸しはがしが続き、鈴木商店は倒産します。

台湾銀行の経営危機

さらにこの影響は、植民地経済にも飛び火します。
日本統治下の台湾経済を支える「台湾銀行」は、鈴木商店に巨額の融資をしており、実にその約半分が鈴木商店関連だったと言われます。
最大の取引先が倒産したことで台湾銀行も経営難に追い込まれ、一時休業します。

また、同じころ第十五銀行(通称:華族銀行)も休業し、日本全国で信用不安が波及しました。

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若槻内閣の苦渋の退陣と昭和恐慌の幕開け

事態を重く見た若槻内閣は、天皇の名で出す「勅令」によって、台湾銀行を救済しようと計画します。
しかしこの案は、天皇の諮問機関「枢密院(すうみついん)」が反対し、成立しませんでした。

枢密院が頑なに反対したのは、政権交代など複雑な政治思惑が関係していたと考えられています。
たとえば 幣原喜重郎外務大臣が推進していた欧米との協調外交に不満を持つ勢力、政友会など野党の政権奪還を狙う動きなどです。
この点には異説もあり、「経済的な不安」だけでなく「政治ゲーム」が根底にあったとの見方も根強いです。

結局、台湾銀行救済勅令は否決され、責任をとる形で第1次若槻礼次郎内閣は総辞職しました。

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金融恐慌が残したもの-五大銀行の台頭へ

このあと田中義一内閣が政権を引き継ぎ、3週間の銀行決済猶予(モラトリアム)を発令することで経済パニックをなんとか鎮静化します。
(モラトリアムの詳細はこちらの記事でわかりやすく解説しています)

この金融恐慌をきっかけに、弱い中小銀行は淘汰・合併され、三井・三菱・住友・安田・第一といった巨大財閥系銀行に預金が集まることに。
こうして日本の金融界は「五大銀行」が支配する時代へと再編されていきます。

この流れは、その後やってくる世界恐慌や、浜口雄幸内閣の金解禁といった動き――つまり昭和初期の「昭和恐慌」と呼ばれる一連の激動の幕開けとなっていきました。


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この記事のポイント(まとめ)

  • 1927年(昭和2年・丁卯)、片岡大蔵大臣の「銀行破綻」発言がきっかけで、全国規模の金融恐慌=取り付け騒ぎが発生
  • 銀行の倒産・休業が連鎖し、鈴木商店台湾銀行にまで飛び火
  • 枢密院は救済勅令案を否決し、第1次若槻礼次郎内閣が総辞職へ
  • 以降、五大銀行による金融支配が進み、昭和恐慌という更なる大パニックへの入り口となった

金融恐慌昭和恐慌は、たった一言から日本社会に大きな波紋を広げました。
政治や経済がどう動き、人々の生活がどのように変わっていったのかを学ぶ上で、ぜひ覚えておきたい現代にも通じる歴史のできごとです。

昭和前期政治史 概説シリーズ(1927-1932)
次の記事 → 田中義一内閣の金融恐慌収拾-モラトリアム3週間-


参考文献
・新版 昭和史 1926-1945(半藤一利、平凡社)
・昭和天皇独白録(寺崎英成・マリコ=テラサキ=ミラー 編、文藝春秋)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。

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