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昭和時代初期

昭和天皇の激怒と田中内閣の崩壊

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1929年、日本政治を揺るがす未曾有の事態が勃発します。奉天の日本領事館・林久治郎総領事らの調査や銭湯の証言によって、張作霖爆殺事件の首謀者関東軍参謀・河本大作大佐であることが露呈しました。

河本らは何人かの中国人アヘン中毒の男など)を雇い、機密費を使って爆破の罪をなすりつけようとしたのです。しかし、事件の経緯証拠物件から謀略であることは明白でした。

今回は、事件の隠蔽を図る陸軍・政界の闇と、それに激怒した昭和天皇による決断のドラマに迫ります。

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1. 露骨な隠蔽策:3000円の機密費と「政友会」の工作

真相の発覚を恐れた日本の政界・陸軍は、事件の闇処分と握り潰しに動きます。

当時の陸軍大臣・白川義則や、与党・立憲政友会の有力者である鉄道大臣・小川平吉らの間で、不穏な動きがありました。

「今朝、御電話の件につき、ようやく三千だけ調え候あいだ、然るべくお取り計らいくだされたく候、申すまでもなく、すでに交代後につき、今後は小生の手にはもはや処置致しかね候次第、御了承下されたく候。敬具」

小川から白川に送られた手紙が示す通り、機密費から三千円という巨額の裏金が動かされました。7月30日には、事件に関与した工作員の工藤鉄三郎安達隆成へ送金され、「御厚意謝す、三○確かに受け取った。工藤・安達」という受領連絡が残されています。

謀略の隠蔽と今後のことを円滑に処理するため、東京参謀本部陸軍省陸軍の妨害を強めました。隠蔽に奔走する田中首相に対し、政敵からは「あなただって陸軍出身でしょう」と皮肉られ、陸軍の現役幹部からの圧力にも晒されました。

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2. 昭和四年五月六日、ごまかしの報告と天皇の激怒

約半年の迷走を経て、昭和四年(1929年)5月6日、田中首相は奉天での事件について再び天皇に拝謁し、信じがたい報告を行います。

「実はこれは陸軍がやったのではありません。陸軍とは一切関係のない話であります」

田中は「警備」上の過失として、関東軍関係者をほんの軽い行政処分で済ませようとしたのです。最初は「陸軍が関わっていれば厳罰に処す」と言っていた前言を完全に翻し、「一切関係ない」とシラを切るごまかしの報告を行いました。

これに対し、若き昭和天皇の怒りは爆発します。

後年の『独白録』で、昭和天皇はこう回想されています。

「田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいという事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った」

昭和天皇自ら田中に対して事実上の「辞職せよ」という辞職勧告を突きつけたのです。

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3. 側近たちの葛藤と田中内閣の終焉

天皇の毅然とした態度の裏には、内大臣・牧野伸顕や元老・西園寺公望ら側近たちの苦悩と助言がありました。

5月6日の報告後、頑なな陸軍の態度を懸念した側近たちは相談を重ねます。牧野伸顕の日記には、当時の苦しい内情が刻まれています。

「ために政変の起こる事も予想せらるるところ、これは政治上ありがちの事にして、さほど心配することにあらざるべきも、大元帥陛下と軍隊の関係上、内閣引責後本件を如何に処置すべきや、善後の処置をあらかじめ考慮し置くべき必要あるべし」

さらに5月11日侍従長を務めていた元海軍大将鈴木貫太郎(後の終戦時首相)と侍従武官長らは、臣下として「陛下の判断を曇らす」ような暴挙を猛省しました。

「前後の真相の内奏相容れざる事ありては聖明を蔽う事となり、最高輔弼者として特にその責任を免れず、……聖慮のあるところ御尤もと存じ上げ奉る次第なれば、折を以てその趣を上聞に達せられたく依頼せり。侍従長も全く同感なりと云えり」

臣下にとってあってはならないこと——即ち天皇に偽りの報告(二枚舌)をして陛下の判断を曇らす行為は、総理大臣としては責任を免れることはできない重大な裏切りでした。少々問題どころではなく、鈴木侍従長らも「これ以上勝手を許せば将来のためにならない」と判断。田中の引責辞職はやむなしという方針で一致しました。

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4. 軍部の芽生え:中堅将校たちの「策動」

一方で、陸軍内部では不穏な中堅グループが策動を開始していました。

後に日中戦争や太平洋戦争を主導することになる岡村寧次少佐らの日記(軍記)には、この時期の緊迫した動向が克明に記されています。

  • 一・七 木曜会、長田、岡村、登場。『政治と統帥』が議題。
  • 二・一○ 二葉会、渋谷の神泉館で。黒木、永田、小笠原、岡村、東条、岡部、松村、中野参集。在京者全部出席。河本事件につき協議す。
  • 三・二二 二葉会。爆破事件人事等につき相談。
  • 六・八 二葉会、九名全員集合。河本事件につき話す。

後に「陸軍統制派」の中核となる二葉会(東条英機、永田鉄山ら)の面々は、密かに集まって「河本事件」の人事や防衛策を協議し、組織防衛と政治への介入を深めていたのです。

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5. まとめ:昭和の大動乱へ

天皇自ら田中に対して辞職勧告を行ったことで、田中義一内閣は総辞職を余儀なくされ、田中自身もその数か月後に急死しました。

しかし、事件を起こした首謀者・河本大作は予備役(解雇に相当)という軽い処分で済まされ、軍部全体の暗躍を抑え込むことはできませんでした。

「国家のため」と称して謀略を巡らせ、政府すらもごまかそうとした関東軍の成功体験は、この後「満州事変」、そして「太平洋戦争」という昭和の大動乱へと一直線に繋がっていくことになります。歴史の歯車が狂い始めた決定的な瞬間こそが、この「満州某重大事件」だったのです。

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