こんにちは!歴史総合ドットコムのライターです。
前回は、【1928年】日本初の普通選挙をわかりやすく解説!無産政党の登場と政府の警戒で、日本で初めて実施された男子普通選挙について説明しました。
この選挙で、多くの人々が新たに政治に参加し始め、無産政党(むさんせいとう)が8議席を獲得したことは社会に大きな影響を与えました。
しかしこの変化は、当時の田中義一(たなか ぎいち)内閣に強い警戒心を抱かせます。
今回は、その警戒感から昭和初期に起きた歴史的な思想弾圧、三・一五事件と治安維持法の改正について、高校生にもわかりやすく解説していきます。
普通選挙がもたらした変化と政府の警戒
その結果、労働者や農民など財産のない人々を中心とした無産政党の議席が大きく伸びることになります。
とくに、社会主義・共産主義思想を持つ政治勢力、とりわけ日本共産党(にほんきょうさんとう)の宣伝活動が以前より目立つようになりました。
田中義一内閣は、天皇中心の国家体制(国体)を否定するような動きに対して「国の根本を脅かす」と考え、強い警戒を示すようになっていきます。
三・一五事件(1928年)とは?全国一斉の弾圧
使われたのは治安維持法という法律です。
普通選挙法ができたのと同時期で、「アメとムチ」の政策といわれます。
天皇制や資本主義そのものを変えようとする運動を厳しく取り締まりました。
この治安維持法に基づき、政府は日本共産党の党員や支持者とみなした人たちに対し、全国規模で一斉に逮捕を行いました。
その人数はおよそ1600名といわれています。これが「三・一五事件」です。

この一斉検挙は、日本の社会運動や世論全体に衝撃を与え、さまざまな波紋が広がりました。
治安維持法改正で最高刑が「死刑」に
三・一五事件の後も、弾圧の手は緩みませんでした。
むしろここから、さらなる強硬姿勢がとられます。
政府は、国会の審議を経ずに天皇の「緊急勅令」という形で治安維持法を改正しました。
この改正によって、罰則が大幅に強化されます。
- 改正前:最高刑が「懲役10年」
- 改正後:最高刑が「死刑または無期懲役」に
政府の方針に反対する考えを持つだけで、場合によっては命を失う危険性が出てきたのです。
こうした厳罰化に対しては、国会内でも強い批判があり、とくに労働農民党の山本宣治(やまもと せんじ)議員が反対の論陣を張りました。
しかし
三・一五事件が社会に与えた影響
三・一五事件および治安維持法改正は、社会にさまざまな影響を及ぼしました。
関連団体の強制解散
共産党の影響下にあるとされた以下の3団体を強制的に解散させました。
- 労働農民党
- 日本労働組合評議会
- 全日本無産青年同盟
これによって、大正デモクラシー期に盛り上がった労働者・農民中心の社会運動は大きな転機を迎えます。
「特高警察」の全国展開
また、この事件を契機に、思想や運動を専門に監視・取り締まる警察組織が全国に設置されました。
それが「特別高等警察」、通称「特高(とっこう)」です。
「思想警察」とも呼ばれた特高警察は、国民への監視や取調べを強め、
人々が自由に発言・運動することを難しくしたと言われます。
日本共産党の弱体化と四・一六事件
さらに翌年、
度重なる弾圧と内部対立(いわゆる「内ゲバ」)も重なり、日本共産党は壊滅的な打撃を受け、地下に潜るしかなくなっていきます。
まとめ
三・一五事件と治安維持法の改正は、普通選挙によって国民の政治参加の道がひろがる一方、
政府が「国家体制に合わない思想や運動」を法律の力で抑え込もうとした、昭和初期の社会の姿を象徴する事件でした。
この時代の思想弾圧強化は、その後の軍部の台頭や言論・思想の自由が大きく制限される時代に大きな影響を与えた――と考える歴史研究者もいます。
田中義一内閣の政策全体をもっと知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。
→ 田中義一内閣の政策とは?金融恐慌から積極外交、張作霖爆殺事件までわかりやすく解説
記事中で使われた用語や出来事は、当時の資料や史料を参考にしていますが、一部内容については歴史学者の間でも見解が分かれる場合があります。
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