昭和初期、日本は経済危機や国際関係の大きな変化に直面していました。
そのなかで生まれたのが田中義一内閣。1927年(昭和2年・丁卯)~1929年(昭和4年・己巳)の約2年の間に、金融恐慌の収束や積極外交、そして張作霖爆殺事件といった、後の日本史に大きな影響を与える出来事が連続しました。
本記事では、高校生にも分かりやすく、田中義一内閣の主な政策の流れとその意味を順を追って解説します。
田中義一内閣、激動のスタート
金融恐慌への対応 ― 3週間でパニック収拾
田中義一内閣が発足したのは、1927年(昭和2年・丁卯)4月。
その直前、全国で「取り付け騒ぎ」と呼ばれる銀行預金引き出しのパニックが拡大し、社会は大混乱に陥っていました。これが金融恐慌です。
金融恐慌(きんゆうきょうこう)とは?
銀行が倒産するかもしれないという噂で、みんなが一斉に預金を引き出そうと銀行に殺到し、さらに銀行倒産を招くという連鎖的な経済パニックのことです。
こうした危機に対し、田中内閣は金融政策に強い高橋是清を大蔵大臣(いまの財務大臣)に起用しました。

高橋是清はただちにモラトリアム(支払猶予令)を発令します。
これは「全国の銀行は3週間、預金の払い戻しを一時的にしなくてよい」という緊急措置です。
その間に日本銀行が資金を提供し、銀行破綻を食い止め、混乱を沈静化。
田中義一内閣は3週間で金融恐慌を収束させました。
国内政策:初の普通選挙と社会運動への対応
経済危機をしのいだ田中内閣は、次に政治制度改革にも着手します。
1928年(昭和3年・戊辰)2月、日本で初めて男子普通選挙が実施されました。
これは満25歳以上のすべての男子が納税額に関係なく投票できる画期的な選挙です。
この選挙で、労働者や農民の党=無産政党が台頭し、8議席を獲得します。
けれども、政府はこうした新しい政治勢力の伸長を社会秩序の危機と見ました。
選挙直後の3月15日には、治安維持法を使い、共産党員らを全国一斉に検挙する三・一五事件が発生します。
さらに治安維持法は最高刑が死刑となるほど改正されました。
「アメ(選挙権拡大)」と「ムチ(思想弾圧)」の両輪で社会を統制しようとした政策だったと考えられています。
「積極外交」とは ― 対中国の強硬政策
田中内閣の特長的政策の一つが、「積極外交」と呼ばれる対中国強硬路線です。
山東出兵 ― 武力による中国への介入
当時の中国では、蒋介石率いる国民党が中国統一を目指す「北伐」を進めていました。
日本では、満州での権益(鉄道・鉱山などの利権)に危機感を抱いた田中首相が、在留邦人の生命・財産保護を理由に、
1927年から3度、中国の山東省に日本軍を派兵します(山東出兵)。
この山東出兵は、中国国民の激しい反発を招き、かえって反日感情を高め、日中関係を悪化させました。
張作霖爆殺事件 ― 独走する関東軍と内閣の危機
中国東北部(満州)を支配していたのが張作霖という軍閥のリーダーです。
最初は日本に協力的でしたが、次第に独自の動きを見せたため、日本の現地軍(関東軍)との関係が悪化していきました。
日露戦争の結果、満州の日本権益を守る目的で置かれた陸軍部隊。次第に本国政府の言うことを聞かず、現地で独自の行動をとることが多くなりました。
そしてついに1928年(昭和3年・戊辰)6月4日、
関東軍は、張作霖が乗る列車を爆破――張作霖爆殺事件(満州某重大事件)を引き起こします。

関東軍の一部は「中国側の仕業」に見せかけて、これを大義に満州全域を実効支配しようとした(という見方が一般的)ですが、国際社会の反発と、中国側の怒りだけが大きくなり、結局計画は頓挫しました。
さらに詳細は下記よりご覧いただけます:
* 張作霖爆殺事件(満州某重大事件)とは?関東軍の暴走と田中内閣崩壊の真相をわかりやすく解説
昭和天皇の怒りと田中内閣の終焉
事件後、田中首相は「犯人を厳しく処分する」と昭和天皇に約束しますが、調査の結果、実行犯が日本軍将校であることが判明しました。
しかし、軍からの強い圧力により十分な処分ができずにいると、昭和天皇は田中義一に強く不快感を表明した、とされています。
それでは前の話と違うではないか。辞表を出してはどうか。
天皇の信頼を失った田中義一は、内閣総辞職を余儀なくされました。
1929年(昭和4年・己巳)7月、こうして田中内閣は終焉を迎えます。
この張作霖爆殺事件以降、日本の軍部が政府や天皇の意向も無視して独自行動するという姿勢が明確化し、これが後の満州事変などの軍部独裁体制の流れを生む始まりとなりました。
まとめ
田中義一内閣は2年ほどと短命でしたが、
昭和初期の日本の進路に大きな影響を与えました。
- 内政:金融恐慌をわずか3週間で収束させ、初の普通選挙を実施。しかし治安維持法を強化して社会主義など新思想を徹底弾圧した。
- 外交:中国に対して積極外交で軍事的な介入を強化。山東出兵や張作霖爆殺事件などの強硬策を展開した。
- その結果:関東軍の暴走を止められず、天皇の信頼を失い、政党政治の力を弱め軍部支配の流れを加速させた。
田中義一内閣の政策とその結末は、「軍部の独走」と政党内閣の壁の象徴的事件と言えるでしょう。
昭和前期の流れをつかむうえで、ぜひ押さえておきたい大切な時代です。
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