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昭和時代初期

田中義一内閣の政策をわかりやすく解説

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昭和時代初期
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最近、まで田中義一内閣に関する記事をたくさん書いてきました。
まとめておきます。

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田中義一内閣の成立

田中義一内閣は第1次若槻礼次郎内閣の総辞職を受けて、成立します。

第1次若槻礼次郎内閣の政治-大蔵大臣の失言と金融恐慌-
第1次若槻礼次郎内閣は三菱と結んだ憲政会を与党に組閣しました。外務大臣は協調外交路線をすすめた幣原喜重郎です。金融恐慌(1927年)第52回帝国議会の開会中に、震災手形処理2法案の審議中において、片岡直温大蔵大臣が「東京渡辺銀行は破綻した」...

田中義一内閣における大蔵大臣は高橋是清でした。
田中義一は外務大臣も兼任していたのでした。

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田中義一内閣の政策

田中義一内閣の政策は主に5つに集約されます。

①金融恐慌の収束

田中義一内閣ではモラトリアム三週間で金融恐慌を収拾します。

田中義一内閣の金融恐慌収拾-モラトリアム3週間-
前回、金融恐慌が発生したと伝えました。今回は、前回お伝えした若槻礼次郎内閣が総辞職してからの続きです。田中義一内閣の組閣若槻礼次郎内閣の総辞職を受けて、田中義一が組閣しました。大蔵大臣は高橋是清です。田中義一は外務大臣も兼任して、田中強硬外...

②山東出兵

対中国強硬路線だった田中義一内閣では国民党政府の北伐に対して、山東の権益を守るために出兵したのでした。

山東出兵と対支政策綱領制定-何故?目的は?いつ?を簡単に解決-
田中義一は軍人出身です。当時の日本の首相でしたが、外務大臣も兼ね備えています。さらには、中国に対しては強硬路線でした。中国の動向と山東出兵の背景北伐国民党の最高指導者となった蒋介石は1926年に国民革命軍総司令に就任します。中華統一を目指し...

③第1回普通選挙実施

普通選挙が初めて実施され、無産政党が伸長します。

日本の最初の普通選挙実施(1928年)
普通選挙法自体は原敬内閣で1925年に制定されましたね。今回は日本で初めて制定された普通選挙法に基づいた最初の普通選挙についてみていきます。田中義一の衆議院解散1928年1月立憲民政党の内閣不信任案提出に先立ち、田中内閣は衆議院を解散します...

④三・一五事件/共産党員の検挙事件

無産政党に脅威を感じ、治安維持法のもと共産党系議員を処罰します。

田中義一内閣の人民運動弾圧-三・一五事件・治安維持法の改正-
前回の普通選挙の実施で、無産政党が議席を8つも伸ばしたとお伝えしました。今回はそれに脅威を感じた田中義一により、それらが弾圧させられるという事件です。三・一五事件の背景と内容普通選挙実施にともない、無産政党が議席を獲得しました。しかし、共産...

⑤満州某重大事件(張作霖爆殺事件)

関東軍参謀の河本大作の指示で張作霖が列車もろとも爆破されます。この事件がきっかけとなって田中義一は内閣総辞職に追い込まれてしまいました。

張作霖爆殺事件と満州某重大事件
関東軍と張作霖関東軍とは?北京の東にある三海関の以東にあった満州を関より東であったことから関東と呼ばれていた。関東軍とは、その関東に駐屯した日本陸軍のことです。張作霖とは?張作霖とは、満州の実権者であり、親日派の軍閥です。奉天軍閥として北京...
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田中義一内閣の次

その後は浜口雄幸内閣が成立します。立憲民政党に政権交代します。

浜口雄幸内閣と金解禁-その狙いと2つの目的-世界恐慌と農村恐慌
1928年8月田中義一内閣は不戦条約に調印しましたが、立憲民政党はその全文を大日本帝国憲法違反だとして攻撃し、留保宣言をつけてようやく批准されるという失態も犯しました。1929年7月に田中内閣は総辞職し、代わって立憲民政党の浜口雄幸内閣が成...

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