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昭和時代初期

統帥権干犯問題とは?ロンドン海軍軍縮条約が軍部の暴走を招いた理由を解説

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昭和時代初期
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はじめに:軍縮条約が火をつけた憲政の危機

1929年(昭和4年・己巳)10月24日、ニューヨーク株式市場の暴落、すなわち世界的大恐慌が発生し、やがて昭和恐慌として日本の経済にも甚大な影響が広がっていきます。
国家財政の逼迫と国際社会の不安定化のなか、各国が財政負担の軽減と安全保障のため、軍縮による武装制限へと向かいました。
この流れの中で開催されたのがロンドン海軍軍縮会議です。

ところが、条約で定められた日本海軍の艦船保有比率は、国内で激しい反発と分裂を引き起こします。
この論争は単なる兵器数の話を超えて、「天皇の統帥権が政府によって侵された」とされ、国家運営の根本を問う危機へと発展しました。

本記事では、「統帥権干犯問題」と呼ばれるこの政治騒動の全体像を、海軍・政府・政党・そして天皇や元老など多様な関係者の動きも踏まえて、歴史の中でどのような意味を持っていたのかを解説します。


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ロンドン海軍軍縮条約と「対米七割」問題

1922年(大正11年・壬戌)ワシントン海軍軍縮条約では主力艦(戦艦・航空母艦)の保有比率(アメリカ・イギリスに対し日本は6割)が初めて国際的に制限されましたが、重巡洋艦駆逐艦潜水艦など補助艦艇は対象外となり、新たな建艦競争の火種となっていました。
このため各国は補助艦制限の合意を目指し、ロンドン海軍軍縮会議に臨みます。

日本海軍が求めていたのは、対米英7割の艦船保有比率——特に補助艦においてこれを下回っては国防上許されないという立場でした。
ですが交渉の結果日本側に示されたのは、
重巡洋艦は6割
– 補助艦全体では対米英69.7%
という案でした。
とりわけ潜水艦については、それまで持っていた7万8千トンから大幅な削減を求められます。

海軍省と軍令部の将官たちが激しく対立する様子

「条約派」vs「艦隊派」―海軍内部の分裂

この妥協的な案を巡り、日本海軍ははっきりと二派に分裂しました。

  • 条約派(穏健派)
    = 財部彪(海軍大臣)、山梨勝之進(海軍次官)、堀悌吉(軍務局長)、古賀峯一など。
    国家財政の深刻な状況と国際協調を重視し、「不満は残るが一定の妥協もやむを得ない」と考えました。
  • 艦隊派(強硬派)
    = 加藤寛治(軍令部長)、末次信正(軍令部次長)、加藤隆義ら。
    国防に妥協はできず、「兵力量を削減するのは絶対に許されない」という主張でした。
コラム:そもそも「統帥権」とは?
大日本帝国憲法では、天皇の権限は「国務大権」(内閣による行政・立法など)と「統帥大権」(軍の作戦用兵権。軍令部・参謀本部が補翼)に分離。
この「二つの大権は相互に干渉しない」と当時は理解されていました。
兵力量を決定する権限がどちらに属するか——ここに「統帥権干犯」問題の核心があり、これは現代の「シビリアンコントロール(文民統制)」論とも通じるテーマです。

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浜口内閣の決断と軍令部の猛反対

政府の決定直前、永田町・霞ヶ関の激論

1930年(昭和5年・庚午)3月15日岡田啓介ら元老・重鎮も交えた会議で、
艦隊派は「どうしても納得できない、とりわけ重巡洋艦6割などけしからん」と強行に反対。
一方、条約派側は「この方針の範囲で今後、政府が最善を尽くすのであれば条件をのもうではないか」と現実的な合意を促したと記録されています。

最終的に、立憲民政党の浜口雄幸首相は、ロンドン海軍軍縮条約への調印方針を決裁4月1日内閣決定)し、政府として受諾を決定します。

しかし軍令部側はこれに猛反対し、末次信正中将らは天皇への直接上奏も模索したとされます。
史料には「軍令部ロンドン海軍の決定に反対していると伝えられ、天皇は驚いた」などの記述も見られ、事態は極度に緊迫していました。

東郷平八郎ら重鎮を巻き込んだ抵抗

艦隊派は、日露戦争の英雄である東郷平八郎元帥学習院院長。後の東郷神社祭神)や、皇族軍人の重鎮伏見宮博恭王の影響力を活用して政府の決定を覆そうとします。

当初、東郷は条約受諾やむなしとする姿勢を示していたとも指摘されますが、4月21日の元帥会議前日、加藤寛治らの説得を経て、
今回のことには同意できない。はっきりと反対する
と明言します。
この発言は、海軍内部で条約批判が一層強まる転機となりました。


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野党が利用した「統帥権干犯」という論理

統帥権干犯問題立憲政友会など野党による政府攻撃材料として一気に火がつきます。
犬養毅鳩山一郎らは、来たる第五十八特別議会や街頭で政府批判を強力にすすめます。

犬養・鳩山が振りかざした「天皇大権」批判

彼らの主張の筋はこうです:

  1. 軍備(兵力量)は、天皇の持つ統帥権の範囲である。
  2. 海軍省は内閣の一部だが、軍令部は天皇大権「統帥権」の補翼機関。
  3. 海軍省が軍令部の反対を押し切って独自に条約に調印したことは「統帥権の干犯(統帥権に違反)」である。

この論理展開は、憲法の曖昧な点をついたもので、当時の政局に大きな影響を与えました。

鳩山一郎は議会だけでなく、街頭でも次のように演説し、世論を巻き込んで圧力を強めます。

鳩山一郎

鳩山一郎

「今回の条約は軍令部の意見に反して海軍省が勝手に調印した、これはまったくの統帥権干犯で、今後の日本の国防をゆるがす大問題だ」

この「統帥権干犯」というフレーズは、大衆を動かす非常に強力なスローガンとなり、浜口内閣(立憲民政党)に大きな圧力を加えました。


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残された禍根:軍部の政治介入を招いた「魔法の杖」

政府は結果的に総選挙の圧勝を背景に条約を批准しましたが、「政府(内閣)の決定に天皇は反対しない」憲法運用が確立されることで、軍部の統帥権主張はより強い政治的武器となってしまいました。

前記事「西園寺公望はなぜ豹変した?昭和天皇と「君臨すれども統治せず」の原点」でも詳述されていますが、張作霖爆殺事件以降、天皇が内閣の上奏に「逆らわない」不介入の立場を明確にしたことで、
軍部が「統帥権干犯」を理由に内閣・議会の統制から逃れる道が事実上開かれていく状況が生まれました。

こうして「統帥権干犯」の論法は、軍部が政治介入を正当化する「魔法の杖」となり、
以後の昭和前期日本は、このフレーズの呪縛のもと、シビリアンコントロール(文民統制)が大きく後退していくという歴史的結果を迎えることになります。


参考: ロンドン海軍軍縮条約-全権は誰?なぜ参加した?比率は?-

田中義一内閣崩壊と憲法解釈の転換 シリーズ
← 前の記事: 西園寺公望はなぜ豹変した?昭和天皇と「君臨すれども統治せず」の原点


参考文献
・新版 昭和史 1926-1945(半藤一利、平凡社)
・昭和天皇独白録(寺崎英成・マリコ=テラサキ=ミラー 編、文藝春秋)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。

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