武帝の内政政策
推恩の令
第7代武帝(在位紀元前141年~紀元前87年)は
諸侯に対して推恩の令を発布して、
諸侯の勢力を弱めた。
諸侯に対して推恩の令を発布して、
諸侯の勢力を弱めた。
推恩の令
推恩の令とは、
嫡子のみの相続から子弟すべてに領地を分け与えるよう命じたもの。
その結果、諸侯の土地は細分化され勢力は弱体化。中央集権化は一気に進みました。
官吏
官吏の「官」は上級官僚を表し、「吏」は下級官僚を表した。
官吏は現在の官僚のことを表す。
官吏は現在の官僚のことを表す。
郷挙里選
武帝は地方長官推薦による郷挙里選で官吏を任用。地方長官が支配地である郷里の有徳者を官僚に推薦するシステム。
有徳者
読み書きができ、儒学の素養があるもの。
儒学の官学化
秦が失敗した理由は、法家の失敗であると考えた武帝は、秦が焚書坑儒するほど嫌った儒家を登用。儒家の学者董仲舒(とうちゅうじょ)の献策で儒学の官学化を行った。
焚書坑儒で焼かれずに残った5つの経典である五経を研究する五経博士(ごきょうはかせ)を設置。官吏の「官」は上級官僚を表し、「吏」は下級官僚を表した。官吏に儒学を教えたので官学化という。ちなみに国民は道教を信仰していた。
五経とは
次の5つの周代の古典である。儒家により伝承された。
- 易経(えききょう)…占いの方法と宇宙論
- 詩経(しきょう)…中国最古の詩集
- 書経(しょきょう)…周王の言行録
- 春秋(しゅんじゅう)…魯の歴史書
- 礼記(らいき)…周の制度と儀式
これらの多くは始皇帝に焼かれ、漢代に再び書物としてまとめられた。
元号
さらに初めて元号を定めて、中央集権体制を確立。
武帝の対外政策
対匈奴政策
武帝は匈奴に対しては、
将軍の衛青とその甥で同じく将軍の霍去病らに攻撃を命じた。
将軍の衛青とその甥で同じく将軍の霍去病らに攻撃を命じた。
その結果どうにか匈奴をゴビ砂漠の北へ追いやった。
漢帝国はオルドスに朔方郡(さくほうぐん),
漢帝国はオルドスに朔方郡(さくほうぐん),
河西地方に敦煌(とんこう)郡、武威郡(ぶいぐん)、張掖(ちょうえき)郡、酒泉(しゅせん)郡の河西4郡をおいた。
大月氏への使徒と西域解明
武帝は即位後まもなく
匈奴挟撃のために前139年張騫を西方の大月氏と同盟を結ぼうと派遣します。
匈奴挟撃のために前139年張騫を西方の大月氏と同盟を結ぼうと派遣します。
しかし、
大月氏は匈奴に追い出されたものの
西方の地を気に入っていたため交渉は決裂。
大月氏は匈奴に追い出されたものの
西方の地を気に入っていたため交渉は決裂。
しかし、西域(中央アジア)の事情がわかった。
そののち張騫を烏孫に派遣した。
さらに汗血馬の産地として知られる、
シル川上流域の大宛(フェルガナ)に将軍李広利を派遣し、
3000頭の名馬を連れて帰らせた。
シル川上流域の大宛(フェルガナ)に将軍李広利を派遣し、
3000頭の名馬を連れて帰らせた。
対ベトナム政策
武帝は前111年南越を征服します。
武帝は南海郡、日南郡(最南端)、九真郡など南海9郡を設置。
武帝は南海郡、日南郡(最南端)、九真郡など南海9郡を設置。
さらには前108年には、衛満が建国した衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪(らくろう)郡、真番(しんばん)郡、臨屯(りんとん)郡、玄菟(げんと)郡の4郡をおいた。
度重なる外征の結果国家財政はピンチになる。
均輸法と平準法
桑行羊の立案で塩・鉄・酒の専売制を実施し、
さらに均輸法(特産物を政府が不足地に輸送し、商人の中間利潤を防ぐ。)と
へいじゅんほう(価格が低い時にものを買い占め。高い時に売り、価格の調整を行う。)も実施。
さらに武帝は新たな貨幣として、五銖銭を鋳造、貨幣を統一した。
→民衆は重い税に苦しみ社会不安は大きくなった。
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