平安時代初期の約100年間の弘仁・貞観文化の時に、密教が隆盛を極める。
弘仁・貞観文化とは?
密教
桓武天皇の立場
そして、「山家学生式(さんけがくしょうしき)」を定め、比叡山の学僧の規則をつくり、これまでの東大寺戒壇に対抗して、独自の大乗戒壇の創設を目指したが、南都(平城京)から激しい抵抗をされ、最澄は「顕戒論(けんかいろん)」を著して抵抗に反発し、各地で布教を行い、戒壇創設に働きかけた。最澄は別名・伝教大師(でんぎょうだいし)という。
最澄の後継
10世紀以降円仁の門流は山門派(さんもんは)と呼ばれ、円珍の門流は下山し、園城寺(三井寺)に入って、寺門派(じもんは)と呼ばれた。円仁は慈覚大師(じかくたいし)となり、円珍は智証大師(ちしょうだいし)となる。円仁は入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)を遣唐使で唐に行ったと記録が残っている。
真言宗
空海と真言宗
讃岐に生まれた空海は、最初は大学に入ったのが、儒教・仏教・道教の3者の中で、仏教が一番優れているという「三教指帰(さんごうしいき)」を書いて、家族に反対されながら、仏教に身を投じた。
最澄と同年(804年)入唐し、長安で密教の奥義を修得し、2年後に帰国し、紀伊の高野山に金剛峯寺を建て、真言宗を開いた。のちに空海は弘法大師(こうぼうだいし)とよばれるようになる。
密教と顕教
真言は大日如来の吐いた真実義にあり、その秘密性(加持祈祷や現世利益の実現)を密教というのに対し、密教と相対する、顕教(けんぎょう)は釈迦の教えを文字や言葉から学び修行して、悟りを開くもので、空海は「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」で密教の立場を明らかにしている。真言宗の密教を東密と呼ぶ。
嵯峨天皇と密教の道場
密教の道場としては、金剛峯寺だけでなく、空海が嵯峨天皇より賜った、平安京の「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」(東寺)がある。
神道・仏教用語集
- 仏教が在来の信仰と結びつくことを神仏習合(しんぶつしゅうごう)という。
- 神社の境内に建立された寺を神宮寺という。
- 僧侶が神に向かって経典を読み上げることを神前読経という。
- 神社の境内には鎮守が守護神として祀られた。
- 天台宗・真言宗は山岳地帯で伽藍を営んでいたので、在来信仰と合わさって、修験道(しゅげんどう)の基礎が築かれた。
- 紀伊の大峰山(おおみねさん)と加賀の白山(はくさん)が修験の山として有名。
- 修験道の開祖は役小角(えんのおづぬ)で文武天皇によって伊豆大島へ島流しになった。