昭和時代初期

浜口雄幸内閣と金解禁-その狙いと2つの目的-世界恐慌と農村恐慌

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1928年8月田中義一内閣は不戦条約に調印しましたが、
立憲民政党はその全文を大日本帝国憲法違反だとして攻撃し、
留保宣言をつけてようやく批准されるという失態も犯しました。

1929年7月に田中内閣は総辞職し、
代わって立憲民政党の浜口雄幸内閣が成立します。
浜口雄幸は大蔵大臣には日銀総裁だった井上準之助を外務大臣には幣原喜重郎を起用しました。

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浜口雄幸内閣と金解禁

金輸出の禁止

第1次世界大戦以後、日本は金の輸出を禁止していました。

1917年9月の第1次世界対戦中に
他国にならって日本の金輸出を禁止しました。

第1次世界対戦後各国は金本位制に戻し、
金輸出を解禁しましたが、
日本は中国への資本輸出の必要性を考えて見合わせました。

しかし、中国との関係が悪くなった後も、
経済的不安定が続いてていたために、
金輸出の配筋のタイミングを見失いました。

金解禁の実施

1929年の金融恐慌後、金融資本家のもとに過剰な資本が集積され海外投資を求める声が強まりました。
そのためには金本位制に復帰して金解禁を実施するしかなかったのにあります。

日本は大蔵大臣の井上準之助のもと、アメリカイギリスの EU シンジケートから1億円の借金をし、
1930年に旧平価で金解禁に踏み切りました。

旧平価とは?

旧平価は元の交換比率に戻すという意味で、金の輸出禁止時の価格に戻すというものでした。その価格が100円=49.85ドルでした。

金解禁の目的

国際為替相場の安定輸出の増大が目的でした。

しかし、1929年の世界恐慌の翌年でした。

世界恐慌とその影響
...

日本はこの段階で海外との繋がりを強化したわけです。たとえるならば、引きこもりが病気が流行っているときに限って外に出たようなものです。

金解禁の結果

日本も例外ではなく、世界恐慌の影響を受けます。
日本には影響がないだろうと思っていた内閣・大蔵大臣・財界人らの見通しの甘さ、見る目のなさ、
状況を正しくキャッチすることができませんでした。

昭和恐慌

産業合理化

浜口内閣は緊縮財政政策を取ると共に民間企業に対して産業合理化を呼びかけ、
1929年11月に産業合理化審議会設置しました。

都市では中小企業が倒産し、操業短縮、「産業合理化」の名の下に人員整理が行われ、失業者が溢れます。
「大学は出たけれど」が当時の流行語でした。

インフレーションは転落しデフレが始まりました。

1929年10月に公務員や軍人の1割の給料削減をするなど、
1930年度予算では1億6千万円を緊縮し8500万円の公債を発行しました。

産業合理化と労働者の解雇や長時間労働の労働強化を意味しました。
当然のことながら失業者があふれ需要が減った農産物価格は下落しました。

農村でも生糸の輸出が激減したので、繭価暴落します。養蚕農家は大打撃でした。のちに養蚕農家は満州へと派遣される満蒙開拓団の中心となります。

農村恐慌

1930年には豊作飢饉に見舞われ、その翌年1931年には凶作飢饉に農村地帯は見舞われました。こうした状況を農村恐慌とよび、欠食児童が発生し、婦女子の身売りも行われました。

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