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昭和時代初期

張作霖爆殺事件(満州某重大事件)とは?関東軍の暴走と田中内閣崩壊の真相をわかりやすく解説

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昭和時代初期
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昭和初期――日本史の中で、後の戦争へと続く激動の時代が幕を開けます。
当時の新聞は、中国大陸で突如発生した事件を「満州某重大事件」という謎めいた語で報じました。
その陰には、陸軍内部の暴走、暗殺、政界をも揺るがす隠蔽劇という、サスペンスドラマさながらの真実が隠されていました。

この記事では、学校では深く教えられない
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の真相と時代的背景、関東軍の暴走から田中義一内閣崩壊に至る道のりまで、最新の研究と史実をふまえてやさしく解説します。


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事件の背景:なぜ関東軍は「満州王」張作霖を支援したのか

物語は1910年代の中国――辛亥革命により清王朝が崩壊し、中華民国が成立しますが、中国全土は「軍閥」が割拠する混迷の時代に突入します。

この混乱の中で、満州(中国東北地方)を統治したのが馬賊出身の張作霖(ちょうさくりん)でした。
関東軍は、満州での日本の権益維持のため、張作霖を後押しし、互いの利害が一致する「蜜月関係」が生まれます。
張作霖は日本軍から兵器や資金の支援を受けて勢力を急拡大し、ついには北京政府の大元帥にまでのぼり詰めました。

しかし、蒋介石率いる国民政府軍が「北伐」を開始し、北方軍閥を次々と制圧。
張作霖軍は敗走し、やがて本拠地・奉天(今の瀋陽)へ戻らざるを得なくなります。

関東軍内では、次第に「張作霖はもはや日本の思惑通りに動かぬリスク」とみなされ、排除論が台頭していったと考えられています。

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なぜ張作霖は邪魔になったのか?関東軍の暴走と爆殺計画

関東軍の一部過激派は、「満州を日本による直接支配下へ置くため、張作霖を排除すべき」との方針に傾いていったとされています。
この過程において、「統帥権」(天皇大権のもとで軍が内閣=政府の指示を絶対としない)という憲法上の特殊性が、関東軍の独断専行を促した背景と指摘する歴史学者もいます。

直接の証拠が残るわけではありませんが、多くの歴史研究では、
高級参謀河本大作らが独断で計画・実行した可能性が高いとされます(ただし異説や、関東軍内でも全員が一致していたわけではないとの見方も存在します)。

1928年6月4日 ―― 爆殺事件発生の一部始終

1928年6月4日未明、北京からの撤退途上の張作霖を乗せた列車が、奉天郊外で爆薬により大爆発。
張作霖は重傷を負い、まもなく死亡します。

張作霖の乗った列車が爆破される様子

直後、関東軍は「蒋介石軍ゲリラによる犯行」と発表し、現場近くのアヘン中毒中国人の遺体を「犯人」と偽るなど、ずさんな隠蔽工作を開始。
しかし、その隠蔽は現地証言などですぐにほころび始め、日本軍関与説は否応なく広まりました。

そもそもこの爆殺事件の首謀・命令系統には依然として異説が残るものの、河本大作を含む関東軍高級将校らの独断によるものと理解されるのが通説です

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事件の隠蔽工作と政界の衝撃:田中義一内閣の初期対応

事件の報はたちまち東京へ。首相は元陸軍大将の田中義一
政界の重鎮であった西園寺公望(さいおんじきんもち)は、
すぐに「陸軍の仕業だな」と推察したと伝えられます。

ワンポイント:最後の元老・西園寺公望
西園寺は、近代日本を代表する立憲主義者であり、2度の総理経験後は唯一の元老として天皇補佐・首相推薦・危機管理など最重要判断に携わり続けました。軍に絶大な警戒感を持ち、シビリアンコントロールの精神を重んじていました。

西園寺は「うやむやにせず正しく対処すべき」と首相に助言。
田中義一首相も最初は調査・粛正の意志を示し、天皇に上奏します。
「政府としてこの問題をしっかり調べ、もし犯人が日本人であるということになれば厳罰に処さねばならない」

昭和天皇も「非常によろしい。陸軍部内の今後のためにもそういうことはしっかりやるように」と回答。
(これらは独白録などにも記載される史実的なやり取りです。)

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なぜ田中内閣は崩壊したのか?陸軍の抵抗と昭和天皇の怒り

しかし事態は混迷します。
関東軍をはじめ陸軍部内の猛烈な反発を受け、田中義一内閣は調査と処罰を頓挫させてしまいます。
結局、「軍の関与は確認できない」として幕引き報告を謀りました。

これに対し、昭和天皇は強い不信と怒りを表明します。

昭和天皇

昭和天皇

田中の言うことは分からぬ

この発言は実質的な「不信任」と受け取られ、田中義一内閣は総辞職し、田中自身もまもなく急死します(死因や経緯には諸説あり、ここは断定できません)。

昭和天皇の激怒と田中内閣の崩壊について、さらに詳細は関連記事を参照ください。

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事件が遺した最悪の前例:「シビリアンコントロール」崩壊と満州事変への道

本事件で中心的役割を果たした河本大作らはごく軽微な「予備役編入」処分に止まり、厳正に裁かれることはありませんでした。

これは、「政府の意向を無視して軍の一部が独断で国家方針に反する行動を取っても、その責任が真に追及されなかった」悪しき前例となります。

こうした対応は、「統帥権」の名のもと、軍が政府の統制から逸脱しやすい土壌を強め、シビリアンコントロール(文民政府による軍部統制)という近代国家の要原則が揺らいでいく引き金となったと言えるでしょう。

また、関東軍の「既成事実を積み上げて内閣・天皇すら事後追認せざるを得なくする」手法は
この張作霖爆殺事件後、やがて柳条湖事件(満州事変)や華北分離工作へとエスカレート。
昭和の日本が大きく転換する出発点となった事件でした。

「満州某重大事件」は、戦前日本における軍部独走の危険性とシビリアンコントロールの限界を如実に示す、昭和体制の出発点だったといえるでしょう。


用語解説:統帥権とシビリアンコントロール
統帥権とは、天皇主権のもとで陸海軍が政府(内閣)から独立して作戦指揮を行う権限を意味し、日本独自の軍政・政軍関係の根幹にありました。昭和前期、その運用の曖昧さが、軍部の独断的行動や政府統制の形骸化を招いたとされます。
一方、現代国家では、軍はあくまで文民政府の監督下に置かれる「シビリアンコントロール」が民主主義制度の大原則となっています。

関連リンク:
田中義一内閣の政策をわかりやすく解説
張作霖爆殺事件と満州某重大事件
柳条湖事件とは?なぜ?きっかけは?原因は?
華北分離工作とは→関東軍の目的は?内閣は誰?簡単に解説


本記事は断定的な表現を避け、史実と公的記録、主に近年の研究成果にもとづき構成しています。今後の研究や新史料の発見等によって、従来の通説が修正される可能性も留意しつつご覧ください。

田中義一内閣崩壊と憲法解釈の転換 シリーズ
次の記事 → 張作霖爆殺事件の結末|昭和天皇の激怒と田中義一内閣の総辞職


参考文献
・新版 昭和史 1926-1945(半藤一利、平凡社)
・昭和天皇独白録(寺崎英成・マリコ=テラサキ=ミラー 編、文藝春秋)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。

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