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戦国時代

明応の政変

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1493年4月22日、
細川政足利義稙(よしたね)の代わりに、
足利義政の異弟・足利政知の子、
香厳院清晃(きょうごんいんせいこう)を将軍に擁立した。
23日、その旨を朝廷に奏上した。

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擁立の

2月15日、足利義稙は畠山政長の要請で、畠山基家攻略のために、河内国へ出陣した。それには将軍直属の部隊などは加わったが、畠山家一族に介入することだったので、以から将軍出陣への疑問があった。将軍外征に同行するはずの政所執事の伊家も、さすがに介入しなかった。2月24日足利義稙は正覚寺に陣を移した。細川政元が足利義稙の河内出陣を諌めたが、受け入れられなかったから今回、新たに将軍を擁立した。

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擁立の準備

1493年の3月、異母還俗させて出陣中の赤松政則と縁組し、伊勢家を通じて、畠山基家派の大和の古市澄胤(ふるいちちょういん)らにも連絡を取り合っていた。実行にあたっては、伊勢家や日野富子らの協も得ていた。

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政変後

武田家・斯波家らは堺へ退陣し、香厳院清晃派となり、閏4月9日には大内政弘が周防に帰国。同じく、3日には細川政元の内衆、上原元秀を大将として、足利義稙攻めの軍隊が河内に派遣された。21日には赤松家が正覚寺を攻めた。25日畠山政長は自害した。畠山政長の嫡男・畠山尚順(ひさのぶ)は紀伊国に逃れた。足利義稙は降伏して、上原元秀の館に幽閉された。

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政変の結果

細川惣領家の足利家での横暴

細川家は管領家を独占。府での専化を推し進めた。同に、畿内の領国化を進め、近国への影響力も強めていた。

足利義稙の脱出

6月29日夜、風雨に紛れて、上原元秀の館を脱出して、畠山政長の守護代・神保長誠(じんぼながのぶ)を頼って越中国に入り、2人の将軍の体制へとなる。

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