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幕府

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鎌倉時代

鎌倉幕府の3つの役所~侍所・公文所・問注所~

1180年、鎌倉に入った源頼朝は役所づくりをはじめる。侍所関東の武士団を御家人として編成するために侍所(さむらいどころ)を設置します。文字通り侍、つまり、御家人を統率するための役所です。別当侍所の長官職を別当(べっとう)といい、初代別当をつ...
明治時代初期

明治維新政府の発足と五箇条の誓文

明治維新政府は、まず、全体の方針を打ち出します。五箇条の誓文最近は御誓文とは言わないようです。これは、明治天皇が国民に発したのではなく、紫宸殿(ししんでん)で天地神明に誓約する形で出したものです。骨子は開国和親と公議輿論の尊重です。内容 広...
幕末

第一次長州征討(征伐)と高杉晋作のクーデター

第一次長州征討長州征討の勅旨禁門の変で京から追い出された尊王攘夷派にさらなる追い討ちをかけるために、「禁門の変の罪を問う」という理由で、朝廷から長州征討の勅旨を出させました。そうして長州藩を攻撃しました。長州藩の降伏長州藩は四国連合艦隊下関...
戦国時代

三好元長の死~和泉の一向一揆・足利義維の失脚~

前回のあらすじ中嶋の戦いの背景 堺公方府の河内国守護・畠山義宣(はたけやまよしのぶ/義尭(よしあき)、義英(よしひで)の子)と河内守護代・木沢長政(きざわながまさ)の対立が原因です。1531年8月に、畠山義宣が木沢長政の飯盛城(いいもりじょ...
幕末

長州藩外国船砲撃事件と四国連合艦隊下関砲撃事件

孝明天皇は和宮親子内親王の結婚を許す代わりに、攘夷の断行を要求しました。詳しくはをご覧ください。1863年、賀茂神社で攘夷祈願をした孝明天皇は、将軍の徳川家茂に攘夷を決行する日を迫りました。条約に攘夷はしないと外国と約束していたため、一橋慶...
幕末

薩英戦争と参預会議~生麦事件の報復と島津久光の野望~

生麦事件島津久光の大名行列を横切ったイギリス人が殺される事件が1862年、横浜の生麦村で発生していました。イギリス代理公使ニールの要求 犯人の処刑 賠償金の要求賠償金は幕府が支払ったが、イギリスは薩摩藩に犯人の引渡しを要求した。薩英戦争薩英...
幕末

江戸幕府の動揺と幕末の政治・経済大混乱と~安政の大獄から桜田門外の変へ~

日本は1854年に開国して、1859年から貿易が始まりました。当時の日本においての金の価値は、海外と比べて低かったために、金が海外へと流出を初め、日本経済は混乱しました。井伊直弼への責任追及の声日本経済混乱をもたらしたのは、井伊直弼(いいな...
幕末

阿部正弘と安政の改革!-内容は?いつ?誰が?を簡単に-

安政の改革とは、老中・阿部正弘が行った一連の改革のことです。幕政において発言権のなかった朝廷や外様大名から意見を募ったり、あるいは台場を築いたり、海外の脅威に対する国防充実政策をとりました。反面、幕府は独断ができなくなり、相対的に力が弱まるという反作用も受けました。
幕末

ペリーの「黒船」来航と開港と日米和親条約の調印


幕末

開国前夜~アヘン戦争と江戸幕府の手の平返し~

本来なら帝国主義のはじまりの章と、アヘン戦争の項目が先に書かなくては行けないのではあるが、みなさん、日本史がお好きなようなので久しぶりに日本史の記述となる。背景産業革命産業革命の発生後、工業化が進み、工場が多く作られ、様々なものが大量生産さ...
徳島

阿波商人と江戸時代

阿波国の中心地戦国時代末期の中心地=勝瑞しょうずい三好 長慶みよし(ながよし/ちょうけい)の居城。旧の吉野川に近い場所にあった。三好長慶が京都・堺にも三好家の勢力を伸ばしていたことから川や海で堺とつながっていたことが解る。豊臣秀吉の四国征伐...
関東

北条早雲(伊勢新九郎盛時)の伊豆討ち入り

伊勢氏と早雲伊勢氏は室町幕府の政所の執事の家系でした。世が世ならエリート官僚として、伊勢新九郎盛時も活躍していたことでしょう。堀越公方御家騒動堀越公方、足利政知の死1491年4月3日、足利義政の異母弟である足利政知が伊豆(現在の静岡県)で亡...
戦国時代

明応の政変

1493年4月22日、細川政元が足利義稙(よしたね)の代わりに、足利義政の異母弟・足利政知の子、香厳院清晃(きょうごんいんせいこう)を将軍に擁立した。23日、その旨を朝廷に奏上した。擁立の経緯2月15日、足利義稙は畠山政長の要請で、畠山基家...
河野家

応仁の乱

関東の享徳の乱とともに戦国時代の開幕を告げる乱。嘉吉の乱の戦後処理と山名宗全と細川勝元の対立1447年、山名宗全(やまなそうぜん/宗全は出家後の名前。本名・持豊もちとよ)が嘉吉の乱で足利義教とともに殺された山名煕貴(ひろたか)の娘(宗全の養...
関東

享徳の乱-~応仁の乱並に複雑~わかりやすく解説→関東は乱の結果分裂

関東の情勢関東の支配体制は鎌倉公方と関東管領を2大頂点としていました。鎌倉公方は伝統的守護家に支えられ、関東管領上杉氏は中小国人衆に支えられていました。享徳の乱の内容享徳の乱の幕開け嘉吉の変後、足利成氏あしかがしげうじが鎌倉公方になりました...
モンゴル民族の発展

元朝の日本遠征の経緯

元朝の対日交渉 モンゴル軍はチンギス・カン(チンギス・ハン(ハーン))の時代から高麗へ侵攻元朝1273年高麗を属国化→高麗を仲介役として日本と交渉。1266~71年 国書を携えた使節団を3回派遣国書の内容武力行使に言及する部分はあるものの、...
モンゴル民族の発展

モンケ・カン(モンケ・ハーン)

モンケの即位オゴデイ・カン(オゴタイ・ハーン)の長子、第三代皇帝グユクは即位後すぐに病弱のため、急死。ジョチ家とトゥルイ家はモンケを皇帝に推薦し、オゴデイ家とチャガタイ家はオゴデイの指定していたシレムンを推薦した。激しく対立したが、1251...
古代インド・東南アジア

消滅した民族「ピュー人」

1世紀頃、イラワディ川(エーヤワディー川)中流域にはチベット=ミャンマー語族のピュー人(驃人/ひょうじん)(テュルチュルと自称)が都市国家を作っており、南部にはモン人が住んでいた。ピュー人ピュー人はエーヤワディー川周辺のプローム地方を中心に...
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