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モンゴル民族の発展

モンケ・カン(モンケ・ハーン)

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モンケの即位

オゴデイ・カン(オゴタイ・ハーン)の長子第三代グユクは即位後すぐに病弱のため、急
ジョチ家とトゥルイ家モンケを皇帝に推薦し、
オゴデイ家とチャガタイ家はオゴデイの指定していたシレムンを推薦した。
激しく対立したが、1251年トゥルイ家とジョチ家は強引にルタイを開き、
モンケを皇帝に選出。

モンケの統治

モンケ・・・実力・実績・名望とともに申し分ない皇帝ではあったが、自信家で協調性を欠いた。
→モンケに反対する者は徹底的に粛清し、有力官77名を死刑や流刑に処した。

 親政体制の強化

中央政府の要職は腹のモンゴル人武将で固めて、
その下に書記局を設置。通信文書処理を担当させる。

領支配の強化

  中央アジア~南ロシアの総督に盟友バトゥ任命し、
  イランにはフレグ(フラグ)
  華北(旧金領)クビライ(フビライ)を任命した。
  クビライ金蓮川に幕府を開き、漢人の知識人や軍人を招き、属領統治し、
  1256年、開平府を建設。
  モンケは属領に対する人口調査を実施。
  徴税体制を整備、強化。

西遠征

 1252年、雲南クビライを派遣し、大理を服属。
 1253年、西アジア方面に、フレグを派遣。フレグはイランイスマーイール派を破り、
       1258年にはアッバース朝を滅ぼし、シリアにも進撃。
 1256年モンケが自らへ進行するも、1258年の運営で急死したため、南宋攻撃を中止しモンゴル軍は引き返した。

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