モンケの即位
ジョチ家とトゥルイ家はモンケを皇帝に推薦し、
オゴデイ家とチャガタイ家はオゴデイの指定していたシレムンを推薦した。
モンケを皇帝に選出。
モンケの統治
モンケ・・・実力・実績・名望とともに申し分ない皇帝ではあったが、自信家で協調性を欠いた。
→モンケに反対する者は徹底的に粛清し、有力将官77名を死刑や流刑に処した。
親政体制の強化
その下に書記局を設置。通信文書処理を担当させる。
属領支配の強化
イランにはフレグ(フラグ)を
クビライは金蓮川に幕府を開き、漢人の知識人や軍人を招き、属領統治し、
1256年、開平府を建設。
モンケは属領に対する人口調査を実施。
東西遠征
1253年、西アジア方面に、フレグを派遣。フレグはイランのイスマーイール派を破り、
1258年にはアッバース朝を滅ぼし、シリアにも進撃。
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