1925年(大正14年・乙丑)、加藤高明内閣のもとで「普通選挙法」が成立しました。
それまで「一定以上の税金を納めた男性」だけに限られていた選挙権が、
満25歳以上すべての男子に与えられることとなったのです(ただし女性や20代前半の男性はまだ選挙権がありませんでした)。
これは日本の民主主義を大きく進めた出来事ですが、その光と影も存在しました。特に「無産政党」の登場と、政府側の警戒強化(三・一五事件など)は見逃せません。
この記事では、高校生にもわかりやすく、1928年(昭和3年・戊辰)の第16回衆議院議員総選挙について、当時の時代背景や影響も含めて解説します。
選挙の背景:田中義一内閣による衆議院解散と「普通選挙」実施への道
1928年(昭和3年・戊辰)1月、首相は田中義一。政党は立憲政友会(りっけんせいゆうかい)です。
この田中内閣は、ライバルの立憲民政党から「内閣不信任案」を出されそうになり、
政権を守るため、衆議院を解散します。
これが、成立から3年後、初めての「普通選挙法」による総選挙—つまり日本初の普通選挙—へとつながっていきました。
さらに詳しく知りたい人は、田中義一内閣の政策とは?金融恐慌から積極外交、張作霖爆殺事件までわかりやすく解説 も参考にしてください。
有権者が一気に約4倍に!第16回衆議院議員総選挙(1928年)の実施
1928年(昭和3年・戊辰)2月20日—これが歴史的な瞬間でした。
第16回衆議院議員総選挙が、普通選挙法にもとづいて初めて全国で実施されました。
以前の選挙では、納税額の制限により有権者は約300万人のみでした。
しかしこの選挙から約1200万人もの人が投票可能となり、
日本中に「自分の一票」が初めて広がりました。

選挙結果:政友会と民政党の大接戦・無産政党の躍進
与党の立憲政友会は218議席、立憲民政党は216議席。
わずか2議席差という大接戦です。
しかし、最も注目されたのは二大政党の争いではありませんでした。
政府が警戒し厳しく選挙干渉を行ったにも関わらず、無産政党から8名の議員が初当選したのです。
「無産政党」とは? 労働者・農民の声が国会に

「無産」とは「財産や土地をあまり持たない」という意味です。
無産政党とは、主に工場で働く人や、貧しい農民など、
これまで政治に参加しにくかった層や貧しい人々の味方をうたった新しい政党のことです。
この時に議席を獲得した無産政党は、以下の通りです。
* 社会民衆党: 4名
* 労働農民党: 2名
* 日本労農党: 1名
* 地方政党: 1名
著名な当選者例としては、安部磯雄や鈴木文治(社会民衆党)、生物学者で産児制限運動も行った山本宣治(労働農民党)などが挙げられます。
また、労働農民党の一部候補は実は共産党員(当時は非合法)だったとされ、
公の場で初めて堂々と選挙活動を行うという、新しい動きも見られました。
光と影:普通選挙がもたらした影響と三・一五事件
日本初の普通選挙は、多くの国民が歴史上初めて選挙に直接参加でき、
無産政党の議席獲得など、民主主義の発展を象徴する出来事となりました。
しかしその裏では、時の政府や上層部は「無産政党」や共産主義思想の拡大に強く警戒しました。
治安維持法(1925年成立)がすでに施行されており、思想や言論の統制も強まっていました。
実際、この選挙の直後、1928年3月15日には、全国で共産党員などが一斉に検挙された三・一五事件が起きます。
普通選挙で国民の声が広がる一方で、同時に政府による思想や言論の弾圧も厳しくなっていきました。
三・一五事件は、1928年3月15日(昭和3年・戊辰)に起きた一斉検挙事件です。
治安維持法にもとづき、全国で共産党やその関係者が大量に逮捕されました。
普通選挙と同じ時期に、「自由」とは反対の動きが強まっていたことを象徴しています。
まとめ
- 普通選挙法成立によって、満25歳以上男子約1200万人が初めて一票を持てる社会となった
- 1928年(昭和3年・戊辰)には無産政党が初の国政議席を獲得し、日本の民主主義に新しい流れが生まれた
- しかし治安維持法や三・一五事件など、思想弾圧の波も同時に起きていた
「選挙権が広がった=言論も完全な自由があった」わけではなく、この時代の日本社会には民主主義の光と影が同時に存在していたと言えます。
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