はじめに:天皇の激怒が招いた政変
1928年の張作霖爆殺事件(満州某重大事件)は、関東軍の暴走というだけでなく、
その後の日本の政治を根底から揺るがす重大な転換点となりました。
陸軍の責任を曖昧にした田中義一首相の報告に対し、若き昭和天皇は「前言と違う」と激怒します。
この事実上の辞職勧告は、近代日本の憲政史上、極めて異例の出来事とされています。
しかし、この政変の背後では、政界の重鎮・西園寺公望(さいおんじ きんもち)が見せた「豹変」というべき姿勢転換が生まれていました。
「陸軍の暴走を抑えよ」と主張していた西園寺が、なぜ天皇の判断に断固反対したのか――この記事では、史料に残るやりとりをたどりつつ、日本の憲法運用が大きく転換した瞬間に迫ります。
「陸軍を抑えよ」— 西園寺の当初の信念
事件発生当初、政界の危機感は一致していたとみられます。
唯一の元老として天皇を補佐する立場にあった西園寺公望は、陸軍の独走に強い警戒感を示していたことが複数の史料からうかがえます。
事件がうやむやにされることで、軍が政府の統制(シビリアンコントロール)から逸脱し、
国家運営に深刻な前例を残してしまうという見方を、彼が持っていたと伝えられます。
西園寺公望は、公家出身で明治・大正・昭和の三時代に政界の重鎮として活躍しました。2度の総理大臣を務め、山県有朋没後は唯一の元老として、後継首相推薦や危機対応に大きな役割を果たしました。欧州留学経験から立憲主義への理解が深く、軍部の政治介入に対して生涯を通じて警戒的でした。判断の基準は「憲政の常道」、すなわち憲法に基づいた政治運営を最重視することでした。
西園寺の考えには、天皇の側近(内大臣の牧野伸顕、侍従長の鈴木貫太郎など)も同調していました。
陸軍の責任を明確にすることが、国家の規律を守るうえで不可欠だと判断されたのです。
この時点では、西園寺と宮中側近は「陸軍を抑えねばならない」との共通認識を持っていたと言えるでしょう。
天皇、動く — 田中首相への「辞職勧告」
しかし、事態は田中首相の前言撤回により急変します。
陸軍中央や政党内の圧力に屈した田中義一は、
事件の真相を隠蔽し、河本大作大佐らを行政処分(予備役編入)で済ませるという決定を下しました。
1929年6月27日、田中首相が天皇に最終報告を行います。
この報告は、当時の憲法慣例や立憲君主制と照らして、極めて重大な意味を持つものでした。
これに対して昭和天皇は、前回までの経緯と違うとして、
「それでは話が違うではないか。辞表を出してはどうか」と事実上の辞職勧告を行ったとされています。
この毅然とした態度の背後には、牧野内大臣ら宮中側近の進言があったとも伝えられています。
西園寺の豹変:「憲法上やってはいけないこと」
天皇が首相に進退を問うという極めて異例の事態を受け、西園寺公望は、静岡・興津にある自身の邸宅で報告を受けます。
ここで、西園寺は激しい反発を示したと記録されています。

西園寺は、牧野の報告を聞き、
「そんなことをしたらとんでもないことになる。天皇陛下自ら総理大臣に辞めろというなど、憲法上やってはいけないこと。賛成した覚えはない」
と、強い語調で主張したとされます。
牧野が「あなた陸軍を抑えなくてはならないとおっしゃったじゃありませんか」と問い返すと、
西園寺はさらに、
「天皇自らがそのような発言をすることはとんでもない大間違い」
と語気を強めたと伝えられています。
このような「手のひら返し」とも言える主張の転換に、牧野らは大きな衝撃を受けます。
西園寺は、目的の正当性よりも、あくまで憲法に則った「手続き」(形式的正統性)を重要とみていたため、
天皇の直接的な介入は立憲君主制の根底を揺るがす「禁じ手」だと考えた、と推察されています。
当時の牧野の日記や回想記録には、
「あまりの意外に茫然自失、驚愕を禁ずるあたわず」
「明治天皇の時代より未だかつてその例はなく、総理大臣の進退に直接関係すべしとて、反対の意向を主張せられ……」
など、西園寺の異例の反応が書き残されています。
また、長年の盟友だった二人の間に決定的な溝が生じたことについて、
牧野は「今日は結局の帰着を見ずして公爵邸を辞去したり。三十余年の交際なるが今日の不調を演じたるは未曾有のことなり」と記しています。
決着、そして残された教訓
西園寺の反対にもかかわらず、政局はすでに動き出していました。
1929年7月2日、田中義一内閣は総辞職へと進み、田中義一はまもなく急死を迎えます(経緯には諸説あり、断定はできません)。
事件首謀者とされる河本大作らに対する処分も、最終的に軍法会議は開かれず、行政処分(予備役編入)に留まりました。
この一連の出来事は、陸軍幹部層に特異な印象を残しました。
「一連のことは宮中の陰謀であり、彼らがろくなことを天皇に進言しないから、とんでもないことになる」
と考える風潮や、牧野伸顕ら宮中側近を「君側の奸」とみなす動きが強まったとされます。
これは、後の二・二六事件へつながる精神的土壌ともなった、という見解もありますが、
その影響範囲については議論も残ります。
昭和天皇の決意:「君臨すれども統治せず」への道
この事件とその後の批判・反省は、昭和天皇自身の統治姿勢を根本的に変える契機となりました。
昭和天皇は後年、自らの『独白録』でこの時をこう回想しています。
「こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると考えているが、とにかくそういう云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞くところによれば、もし軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取りやめということになったと云うのである」
また同じ独白録には、次のような決意も記録されています。
「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」
以後、天皇は周囲に「今後は余計なことを言ってはなりません。憲法違反になりますから」と伝え、
立憲君主として「君臨すれども統治せず」の原則をさらに徹底させたと考えられています。
負の遺産:黙認が招いた未来
この憲法運用の徹底が、日本政治に新たな問題も生み出しました。
天皇が「内閣が一致して上奏した事案には、内心で反対でも裁可を与える」姿勢を貫いたことで、
陸軍の強硬派が対外強硬策や暴走的な政策を押し通す際、結果的に「お墨付き」を与える構造が生まれたとも指摘されています。
昭和天皇は次のように述べています。
「立憲君主制においては、国務と統帥の各最上位者が完全な意見の一致をもって上奏してきた事は、仮に君主自身、内心においては不賛成なりとも、君主はこれに裁可を与うるを憲法の常道なりと確信する」
このような憲法重視の姿勢が、軍部独走への歯止めにならなかった側面も無視できません。
西園寺公望が直感した「悪しき前例」は、意図しない形で次の時代に引き継がれ、これが日本があらぬ方向へ動き出す結果を生んだ――とも論じられています。
※ 本記事の論述は史実と伝えられる発言・記録などに基づきつつ、その解釈・評価には定説以外も存在することに留意しています。
詳しい背景や関連用語は、張作霖爆殺事件(満州某重大事件) や張作霖爆殺事件の結末|昭和天皇の激怒と田中義一内閣の総辞職もご参照ください。
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