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宋の中央集権化

耶律阿保機の遼(大契丹国)建国から滅亡と西遼まで

宋の中央集権化
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 遼の成立

アジアに強大な勢をふるっていたトゥルク系のウイグルは、
840年にイェニセ川上流の
キルギスにより崩壊して、西遷します。

これは北アジアの民族交替を意味します。
ウイグル人からキルギス人へと変わっていきました。

この間に現れたのが
モンゴル高原で勢力を握ったモンゴル系の契丹(きったん)族(キタイ)である。
契丹はシラム=レン川やラオハ=レムン川流域で遊牧生活を送っていた1つの部族にすぎませんでした。

10世紀初め耶律阿保機(やりつあぼき)
契丹の8部族を統合して、
916年、大契丹国を建国します。

首都は内モンゴルの臨潢府(じょうきょうりんこうふ)

947年第2代太宗が没し、
3代目世宗が中国風に国号をと改

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遼の拡大

926年、遼は渤海を滅ぼす

936年、
第2代耶律堯骨(やりつぎょうこつ/太宗)
のときに、
五代晋の石敬瑭の建国を援助した代わりに、
河北省と山西省の一部に当たる燕雲十六州を割譲させ、
華北に進出します。

その後、太宗は後晋を946年に滅ぼし、
華北の大部分を支配したが、漢民族の反発にあい、
やむなく撤退しました。

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宋との関係

遼は第6代聖宗のときに、
燕雲十六州の奪回をはかろうとする宋に攻撃を仕掛け、
1004年、澶淵の盟を結ばせました。

宋を兄の国、遼を弟の国と位置づけて、

毎年多額の歳幣を兄の国である宋から弟の国の遼へ贈られる見返りに、国境の維持を約束した。

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統治機構

遼は自らの土地と自分の民族性を保ちながら、
中国本土を支配した最初征服王です。

征服王朝というのは歴史学者ウィット・フォーゲルが名したものです。

異なる生活文化を持つ民族を支配するために、
北方の遊牧民には部族制を用いて、
北面官が統治。漢

人などの農耕民族には土地を単位に州制を用いて、
南面官が統治した。

これを二重統治体制といいます。

北面官の最高行政機関を北枢密といい、
南面官は南枢密院と呼ばれた。

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遼の文化

遼は文化面では宗的にはシャーマニズムであったのだが、
仏教に感化されて、寺院や塔を建立します。

遼はキルギス人の国で、
アルタイ族だったが、
ウイグル文字や漢字の影響を受けて、
独自の契丹文字を作りました。

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遼の滅亡と西遼

天祚帝が即位した当初は政治をきちんと行っていたが、
途中から政治を顧みなくなり、人心が離反。

なお悪いことに、女真族の完顔阿骨打が挙兵して勢力を拡大しており、
天祚帝は討伐を試みたが、大敗。

東北全域を奪われた。天祚帝が西走し、兵を集めて反撃したが、金軍に攻められた。

1125年、広州新城で金と宋の挟撃を受けて、滅亡する。

その後、天祚帝が西走した際に、
耶律淳が燕京で即位。

そして、北遼と西遼に分断。

耶律淳の後ろ盾だった耶律大石は、
ごく僅かな兵を率いて、外モンゴルに移り、
遼の支配が残っていた地域に西遼を建国。

その後、90年間中央アジアの強国として君臨した。

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