PR
スポンサーリンク
昭和時代初期

張作霖爆殺事件の結末|昭和天皇の激怒と田中義一内閣の総辞職

スポンサーリンク
昭和時代初期
この記事は約5分で読めます。
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

1928年に発生した張作霖爆殺事件(満州某重大事件)は、近代日本史の中でも特に重大な転機とされます。
この事件は、「満州某重大事件」の名で当時の新聞を賑わせましたが、調査が進むにつれ、首謀者は関東軍の参謀・河本大作大佐であった可能性が高いとする見方が定説となっています(ただし命令系統や共犯範囲には異説も残ります)。

この事件の隠蔽と責任回避に奔走した陸軍と政界、田中義一内閣の苦悩、そして昭和天皇の強い怒り——日本の憲政史に深く影を落としたその「結末」を、史実と史料をもとに解説します。


スポンサーリンク

事件の真相露見と、陸軍・政界の隠蔽工作

河本大作らが一部の中国人(アヘン中毒の男など)を使い、爆殺の罪をなすりつけようとした工作が記録に残されています。ところが現地の調査や証拠物件によって日本軍の関与は次第に公然の秘密となり、張作霖爆殺事件は深刻な政争の火種となりました。

隠蔽を主導したのは陸軍と、与党立憲政友会の一部幹部。
当時の陸軍大臣白川義則と、政友会の実力者で鉄道大臣小川平吉らの間では、機密費から三千円もの資金が動いた記録が残ります。

「今朝、御電話の件につき、ようやく三千だけ調え候あいだ、然るべくお取り計らいくだされたく候、申すまでもなく、すでに交代後につき、今後は小生の手にはもはや処置致しかね候次第、御了承下されたく候。敬具」

この資金の具体的用途については不明点もありますが、事件関与者への口止め料や現地対策費などに使われた可能性が指摘されています。
陸軍省・参謀本部全体としても、組織防衛を第一に水面下で圧力を強めていました。

田中義一首相自身も陸軍出身でありながら、軍部と政党政治のはざまで板挟みの状態に陥りました。


スポンサーリンク

「話が違う」――昭和天皇の激怒と田中義一内閣

事件の初期、田中義一昭和天皇に「犯人が軍人なら厳罰に処する」と上奏していました。しかし、陸軍の抵抗や政局混乱の中、その方針は徐々に後退します。

1929年5月6日、田中首相は再び天皇に拝謁し、
「実はこれは陸軍がやったのではありません。陸軍とは一切関係のない話であります」
と報告。「警備の過失」扱いで行政処分に止める案を通達します。

昭和天皇に上奏する田中義一首相

この真相隠蔽とも言える報告に、昭和天皇は明確に不信と怒りを示し、『独白録』では次のように回想しています。

昭和天皇

昭和天皇

田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいという事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った

立憲君主の昭和天皇が首相に辞職を事実上迫るのは極めて異例のことであり、このやりとりが田中内閣の総辞職を決定づけたと広く認識されています。


スポンサーリンク

側近たちの葛藤――牧野伸顕・鈴木貫太郎らの働き

天皇の毅然とした態度の裏には、側近の内大臣牧野伸顕や侍従長鈴木貫太郎(後の終戦時首相)らの補佐がありました。

牧野伸顕の日記には、

「ために政変の起こる事も予想せらるるところ、これは政治上ありがちの事にして、さほど心配することにあらざるべきも、大元帥陛下と軍隊の関係上、内閣引責後本件を如何に処置すべきや、善後の処置をあらかじめ考慮し置くべき必要あるべし」
という内情が率直に残されています。

また、鈴木貫太郎や侍従武官長も、臣下が天皇の判断を曇らせることの危険性を痛感し、「これ以上勝手を許せば将来のためにならない」と強く認識していたと記されています。(当時の会談内容に基づく)


スポンサーリンク

陸軍内で進む二葉会・木曜会など中堅将校の策動

田中内閣の危機と並行して、陸軍内部でも新たな動きが出てきました。
特に中堅将校グループが、事件処理を「組織防衛」の機会と捉えて結束を強めます。

陸軍の秘密グループ――二葉会・木曜会とは?
昭和初期、陸軍内には

  • 二葉会(ふたばかい):永田鉄山、東条英機、岡村寧次らのグループ。後の統制派の母体となる。
  • 木曜会:永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次ら中心で、陸軍改革や人事刷新を協議。

彼らは軍主導の国家改造を志向し、政党政治への不信から政治介入を志していました。

例えば、岡村寧次少佐の日記には、

「二・一〇 二葉会、渋谷の神泉館で。…河本事件につき協議す」
と記され、「河本事件につき相談」などの会合記録が複数残されています。

こうしたグループの実際の結束や具体的な影響力には異論もありますが、中堅将校が政治に深く関わりはじめたのは、この時代状況の象徴でした。


スポンサーリンク

田中内閣の総辞職と遺された「悪しき前例」

昭和天皇の事実上の「辞職勧告」により、1929年7月2日、田中義一内閣は総辞職となりました。
首相自身もその後ほどなく急死を遂げます(死因には諸説があります)。

しかし、事件最大の問題は未解決のままでした。首謀とされる河本大作らは軍法会議を免れ、「予備役編入」という極めて軽い処分のみに終わります。

政府の意向に反して軍の一部が独断で国家方針に背いても、その責任が真に追及されなかった――。

この「悪しき前例」は、関東軍に既成事実づくりを繰り返す風潮を助長し、その後の華北分離工作や満州事変、さらに戦争拡大への道を開いていきました。

本事件と田中義一内閣の政策は、単なる政権移行以上の意味を持ちます。その後の日本の運命を大きく変える重要な分岐点となった――と多くの歴史家は整理しています。


この「満州某重大事件」こそ、戦前日本における軍部独走を許す大きな突破口となった「歴史の歯車が狂い始めた瞬間」だった、と評価されることが少なくありません。しかし、背景や責任の全容については今も多角的分析が求められる問題です。


関連記事


参考文献
・新版 昭和史 1926-1945(半藤一利、平凡社)
・昭和天皇独白録(寺崎英成・マリコ=テラサキ=ミラー 編、文藝春秋)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。

Related Posts

コメント

タイトルとURLをコピーしました