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平安時代中期

内訌時代と藤原道長・藤原頼通の時代

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内訌時代

安和の変によって他排斥が完了した後(内部リンク:藤原氏の他氏排斥を参考)、藤原氏の内部、身内同士で対立がおこる。内訌というのは内部対立という意味。藤原家の内部で主導権を巡る争いが起こったわけである。「氏の長者」という摂政・関白という最高地位を獲得することを目指した。
藤原兼通(ふじわらのかねみち)と藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が氏の長者を巡り争い、次に、藤原兼家のであり、藤原道長(ふじわらのみちなが)の長・藤原道隆(ふじわらのみちたか)と次兄・藤原道兼(ふじわらのみちかね)の兄弟対立。
その2者が病没すると、藤原道隆の子・藤原伊周(ふじわらのこれちか)と藤原道長が氏の長者を巡り争った。藤原伊周とその弟・藤原隆家が失脚し、藤原道長の勢力が勝利する。このとき、藤原道長の道長は左大臣となる。

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藤原道長の時代

藤原道長は内覧(ないらん)から1016年に摂政、1017年には、政大臣に進んだ人。内覧は天皇に出す文章を内々にご覧になる人のこと。

一家立后

藤原道長は3人のを次々と朝廷へと入内(にゅうだい)させる。これを一家三立后(いっかさんりつごう)という。

彰子

紫式部(むらさきしきぶ)が仕えたことで知られる彰子(しょうし)は一条天皇のもとに入内。敵対関係に合った藤原道隆の娘・定子(ていし)は清少納言(せいしょうなごん)が仕え、一条天皇に同じく入内。

妍子

妍子(けんし)は三条天皇のもとに入内。

威子(いし)は後一条天皇のもとに入内。

嬉子

嬉子(きし)も後朱雀天皇(ごすざくてんのう)へと女御として入内。後冷泉天皇(ごれいぜいれんのう)の母。

望月の歌

1018年に一家三立后を果たした藤原道長は次の有な歌を詠み上げる。

「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」

藤原道長

~藤原実資『小右記』より~

この歌は威子が入内した際に読まれた。望月とは満月のこと。この歌が収録されているのは藤原実資(ふじわらさねすけ)の小右記(しょうゆうき)という記。藤原実資が小野宮で右大臣になったことに起因する。

外戚政策

道長は後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇(ごれいぜいれんのう)と外戚関係を結んだ。外戚(がいせき)は母方の親族関係の事を言う。道長は天皇の正妻の父、つまり外祖父(がいそふ)として政治権力を振るった。摂関政治を長続きさせるためには必なことだった。藤原頼通の娘の場合、男児が生まれなかったので、外戚政治はそこで終わる。

御堂関白記

御堂関白記(みどうかんぱくき)は藤原道長の日記。御堂関白は藤原道長の別名。但し、実際には1017年に太政大臣にはなっても、関白にはなっていないので注意。御堂というのは法成寺(ほうじょうじ)を指す。

殿下渡領

藤原氏の氏の長者が代々受け継いだ荘園群を殿下渡領(でんかのわたりりょう)という。

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藤原頼通の時代

藤原頼通(ふじわらのよりみち)は宇治殿(うじどの)や宇治関白(うじかんぱく)と呼ばれる。これは宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を造営したことによる。平等院鳳凰堂には定朝(じょうちょう)が制作した阿弥陀如来像が祀られている。
 
 

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