享徳の乱-~応仁の乱並に複雑~わかりやすく解説→関東は乱の結果分裂

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享徳の乱 古河公方と関東管領の戦い関東
クロニック戦国全史(講談社)参考
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関東の情勢

関東の支配体制は鎌倉公方と関東管領を2大頂点としていました。
鎌倉公方は伝統的守護家に支えられ、
関東管領上杉氏は中小国人衆に支えられていました。

享徳の乱の内容

享徳の乱の幕開け

嘉吉の変後、
足利成氏あしかがしげうじが鎌倉公方になりました。

1454年12月17日
足利成氏は
関東管領上杉憲忠うえすぎのりただ(憲実の子)と家宰の長尾実景親子
西御門の御所に呼び出し、その場で
暗殺
した。

同時に
武田・里見・印東ら近習衆きんじゅうしゅうらと
下野国の国人らが
山内上杉氏の邸に夜襲をかけ制圧します。

山内上杉家の有力家臣・長尾景仲が
その領国である上野国に帰っていた際のスキを付いた出来事であった。

1455年1月6日に上杉憲忠暗殺の報が京に届くと、
これを聴いた幕府は成氏討伐に動いたが、
このことは24年間にも及ぶ享徳の乱きょうとくのらんの幕開けとなった。

分倍河原ぶばいがわらの戦い

1455年1月21日・22日、
武蔵国の高幡・分倍河原の戦いで、
足利成氏は、長尾景仲率いる上野国・武蔵国一揆を破り、
扇谷上杉家の上杉顕房と犬懸上杉家の上杉憲顕を討死させました。

古河足利氏のはじまり

1455年3月、
小山・結城一族の案内で、
下総国古河に本拠を構えて、
関東平野の中核に独立政権の樹立をはかり、
古河公方こがくぼうと呼ばれるようになりました。

鎌倉焦土化

1455年、
幕府方の今川範忠の軍勢が4月3日、京都を出発します。
6月16日に鎌倉へと侵攻を開始します。
今川家の軍勢は鎌倉公方・足利成氏の邸から始まって、
民家や寺社に火を放ち、「永代鎌倉亡所」と言われるほど焼きつくしました。
上杉憲忠の後継・上杉房顕は、
上野国平井城に入っており、
足利成氏包囲網ができた。

海老瀬口・羽継原の戦い

1459年、上野国・海老瀬口・羽継原えびせぐち・はねつぐはらの戦いで、
関東管領の上杉房顕は、奥州や常陸国の国人衆を動員し、
上野国国境と常陸国から古河公方勢を挟み撃ちにしようとしましたが、
武蔵国五十子いかつこまで逃げ戻りました。
1466年2月12日、上杉房顕は五十子で病死しました。
越後上杉氏の上杉顕定は関東管領に就任します。
上杉顕定は、
足利成氏を古河城から追い出すことに一時成功しますが、
家臣・長尾景春の乱により五十子の陣を追われました。

「足利成氏追討の御内書」

1460年10月21日、将軍足利義政が北関東の諸将に向けて、
古河公方足利成氏追討の御内書を発給しました。

「今に追討延引す。緩怠の至り典譴てんせきまぬががれたし。」

と一向に進まない、
関東制圧へ焦燥感を焦らしていました。
今回は、足利政知を派遣したのに対し、
いっこうに成果のあがらない関東戦線に対し、
将軍自身が大号令をだしたものだったが、
これに応じるものはいませんでした。

享徳の乱 古河公方と関東管領の戦い

クロニック戦国全史(講談社)参考

和睦と戦乱

足利成氏と上杉氏間の和睦

上杉家の講和依頼

1477年7月に鉢形城に孤立した長尾景春救援のために、
足利成氏は1477年12月上杉家本拠白井城にむけて北へ軍を動かした。
12月27日に両軍衝突の寸前状況になった。
そこで上杉家が簗田持助に講和の仲介を依頼します。

受諾

1478年1月1日、
古河公方・足利成氏の家臣、関宿城主・簗田持助が、
上杉家家宰長尾忠景(ただかげ)のもとに使者を派遣し、
講和の受け入れを受諾した。
講和に反対した長尾景春は太田道灌によって鉢形城を攻め落とされました。

足利成氏と幕府間の和睦

「都鄙の合体」「都鄙の和睦」

1482年、
8代将軍、足利義政が
関東管領上杉顕定(うえすぎあきさだ)の父・上杉房定(うえすぎふささだ)に向け、
足利成氏との和睦に同意するむねの御内書を出しました。

これにより1480年から交渉が進められていた
将軍と古河公方の和談が正式に成立しました。
「都鄙の合体(とひのがったい)」「都鄙の和睦(とひのわぼく)」と
呼ばれるようになりました。

戦国の世へ

古河足利氏vs関東管領上杉氏の戦いは、
彼らに属する豪族たちの間にも広がり、

関東は他に先んじて、戦国の世に突入した。

参考文献

戦国全史(講談社)

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