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家臣

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戦国武将

織田信長の清須城入城~主家・清須織田家の滅亡~

尾張守護・斯波義統の自刃1554年7月12日、尾張守護・斯波義統(しばよしむね)に尾張下四郡の守護代・織田信友(おだのぶとも)と、その家臣で小守護代・坂井大膳(さかいだいぜん)らが斯波義統の子・斯波義銀(よしかね)が川狩にでかけた留守を狙い...
戦国武将

聖徳寺の会見(織田信長と斎藤道三の同盟確固に)

前回、斎藤道三(さいとうどうさん)の娘帰蝶(きちょう/濃姫/のうひめ)を織田信長に嫁がせました。その織田信長がうつけ者だという噂の真相を確かめるために、濃尾国境の中立地帯にある尾張富田の聖徳寺(しょうとくじ)で、1553年4月に会見をしまし...
ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ封建社会の荘園制~農奴の賦役と貢納と十分の一税~

西ヨーロッパにおける「荘園」とは?西ヨーロッパにおいては、12~13世紀頃に都市と商業が成長するまでは、ほぼ自給自足の農業生活を送ってすごしていました。その農業社会を支えていたのが、荘園(しょうえん/villa,manor)でした。主君から...
関東

北条早雲(伊勢新九郎盛時)の伊豆討ち入り

伊勢氏と早雲伊勢氏は室町幕府の政所の執事の家系でした。世が世ならエリート官僚として、伊勢新九郎盛時も活躍していたことでしょう。堀越公方御家騒動堀越公方、足利政知の死1491年4月3日、足利義政の異母弟である足利政知が伊豆(現在の静岡県)で亡...
関東

享徳の乱-~応仁の乱並に複雑~わかりやすく解説→関東は乱の結果分裂

関東の情勢関東の支配体制は鎌倉公方と関東管領を2大頂点としていました。鎌倉公方は伝統的守護家に支えられ、関東管領上杉氏は中小国人衆に支えられていました。享徳の乱の内容享徳の乱の幕開け嘉吉の変後、足利成氏あしかがしげうじが鎌倉公方になりました...
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