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古代インド・東南アジア

スコータイ王朝の建国から滅亡まで~首都は?場所はタイ?~

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タイ系諸族

ベトナム部からビルマ東北部にかけて住んでいる。

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歴史的背景

南詔国とタイ系民族の南下

7世紀半ば頃より、南詔国の都・大理周辺で暮らしていたとされるが、
その辺りより東南アジアに南下し、バーンと呼ばれる小さな村落を作っていた。
その、バーンが統合され、ムアン(地方国家)が成立。
ムアンの中心部は一定の人口を有しており、都市的空間を有していた。
彼らはメール人やビルマ人、モン人の間に入って生活していた。

寇とタイ人の拡大

13世紀モンゴルの攻撃で、東南アジアが踏み荒らされた後、
13世紀末から14世紀にかけて勢力を拡大。
北部のチェンマイ国・中部のスコータイ王国、メコン川上流ンサン王国、
時代を下って、チャオプラヤー川下流のアユタヤ朝。タイ系シャン人の国々を建国

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スコータイ王国

タイ人は13世紀半ばごろ、
スコータイ地方からクメール人を駆逐し、立。
メナム川中流域スコータイ朝創始
首都はスコータイ。タイ人は従元であったアンコール朝から政治的基盤を学び、
また、クメール文字由来のタイ文字を創案。

ラームカムヘーン王の治世

スコータイ朝の全盛期の王第3代ラームカムヘーン
シャム文字(タイ文字)クメール文字から創始。
マレー半島のリゴール、ビルマのパゴ―まで、勢力を拡大。
マレー半島を征服した時に、上座部仏教が渡ってきて河川交通網を通して浸透。
それまでの大乗仏教やヒンドゥー教メインの統治から、
上座部仏教を主とする統治機構ができた。
ワット・マハタート(ワット・マハー・タート)がスコータイ様式の建築として有名。
彫刻では「シーサッチャナーライの遊行仏」が有名。
元を訪朝し、朝貢した。

スコータイ朝の滅亡

1351年にスコータイ朝の南方にアユタヤ朝ると、
版図は徐々に失われ、
ついにアユタヤ朝のラーマディボディ王
スコータイ朝のリタイ王は降伏。
スコータイ朝は1438年には完全にアユタヤ朝の地方政権となってしまったが、
1569年にビルマ軍がアユタヤ都を占領した際に、
アユタヤ朝の王としてスコータイ朝王は継続していたため担ぎ出される。
その後、ビルマ軍を撃退し、アユタヤ朝の王位についた。

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