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平安時代後期

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院政が行われていた頃。上皇が権力握っていた頃。

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平安時代後期

平氏の有力家人・阿波民部大夫重能

阿波民部大夫重能とは?平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した阿波の豪族です。阿波民部大夫重能は平氏方の有力家臣として活躍しました。 美濃・尾張の源氏方と合戦「玉葉」治承5年(1181年)2月29日条 「伝え聞く。尾張之賊徒等少々、美乃...
平安時代後期

治承・寿永の乱(源平合戦)と平家の滅亡

平清盛と安徳天皇1180年安徳天皇が即位します。安徳天皇とは?安徳天皇は平清盛の娘である建礼門院徳子を母に持ち、後白河法皇の皇子、高倉天皇を父に持つ。平氏追討の令旨後白河法皇の第2皇子、以仁王(もちひとおう)が、平氏追討の令旨(りょうじ)を...
平安時代後期

平氏没落を早めた「鹿ヶ谷の陰謀」

以前、平氏政権の全盛~この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし~で平氏が官職の独占によって、全国の支配をはかりました。しかし、独占によって、旧勢力である追いやられた公家勢力から強い反発を受けることになります。建春門院の死去平清盛の妻の姉妹で...
平安時代後期

日宋貿易について~音戸の瀬戸・大輪田の泊・誰が?・輸出入品~

平氏は平忠盛以降、日宋貿易にも力を入れだします。平忠盛の政治日宋貿易の背景11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来が活発となり、12世紀に層が北方の女真の立てた金に圧迫されて、南に移ってからは南宋との通商も盛んに行われるようになっ...
平安時代後期

平氏政権の全盛~この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし~

平清盛の政治~六波羅政権~平清盛が平治の乱に勝利して、六波羅政権を確立します。実は平清盛の前に、一族の土台がちゃんとありました。六波羅政権平清盛は1167年に武士として最初の太政大臣となりました。政庁や一族の居宅を六波羅に構えたので、平氏政...
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平治の乱と平氏政権への道

前回、伊勢平氏の発展と保元の乱で、勝った側の武士同士の対立が戦いの原因となりました。では、今回の平治の乱をみていきましょう。平治の乱の背景後白河天皇の譲位と院政の開始保元の乱のあと、1158年(保元3年)に後白河天皇は、二条天皇に譲位し、後...
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伊勢平氏の発展と保元の乱

伊勢平氏の発展桓武平氏と伊勢平氏の関係性平忠常の乱よりあとのこと源氏に立場は取って代わられてしまい桓武平氏一族は散り散りになってしまいました。関東に残った桓武平氏の中には、源氏の家人となるものもいたそうです。平将門の乱で功績があった平貞盛の...
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仏教の衰退と大寺院の僧兵による荘園争奪戦

白河上皇の天下三不如意の中には、山法師というのが入っていました。これは延暦寺の僧兵だといいました。つまり、天台宗の総本山延暦寺でさえ、僧兵を使ってでも、収入をとりもどさなければならないほど、仏教的な権威が衰退していたということです。今回は、...
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院政の構造~院政を支える仕組み~

院政の構造をこれから書いておきます。摂関政治で栄華を極めた藤原氏から天皇を退いた院(上皇)に権力が集中していく院政。どのような仕組みだったのでしょうか。院政の政庁院政がおこなわれたのは院庁(いんのちょう)です。その政庁ではたらいていた職員を...
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白河上皇の院政の開始

白河天皇時代白河天皇は1072年に即位した後、1086年に位をおります。はじめて院政を執り行いました。(院政についてはのちほど)法勝寺(六勝寺の1つ)白河天皇は仏教に篤く、院政時までに"〇勝寺"を6つ建立します。法勝寺はその1つで、現在の京...
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武士団の結成~武士の台頭と貴族の衰退のはじまり~

前回、の続きです。武士団つわもの(兵)都では、武力で朝廷に仕える人々があらわれました。地方でも、有力農民や地元の公の職に勤める在庁官人と呼ばれる人々のなかに、武装するものもあらわれてきました。こうした人々を兵(つわもの)とよびます。武士団兵...
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荘園公領制~1国2制度~

収入源である公領前回の、により、貴族や寺社の所有する荘園と、国司が支配する公領(こうりょう/国衙領/こくがりょう)にわかれました。律令税制の崩壊国家財政は租庸調を基本とする律令税制でやってきていました。班田制が崩壊したために、収入源が減って...
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後三条天皇による「延久の荘園整理令」

藤原道長の子、藤原頼通と藤原教通には子どもができませんでした。そんな中、藤原氏と血縁関係が薄い後三条天皇が即位します。後三条天皇は藤原氏の荘園を減らし、藤原氏の勢力を減らすために、荘園整理令を出します。藤原氏の摂関政治は力を失っていきます。
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