「中国軍が日本の鉄道を爆破した!」
1931年(昭和6年・辛未)9月18日の夜、中国大陸に衝撃的なニュースが報じられました。
しかし、このニュースの背後には裏の事情がありました。
実際には、犯人は中国軍ではなく、日本の軍隊である「関東軍(かんとうぐん)」の一部が起こした自作自演の爆破事件と見なされています。
この「柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)」は、日本と中国の関係を大きく変えるきっかけとなり、その後の長い戦争時代の始まりとなりました。
今回は、日本史の大きな転換点となった柳条湖事件について、できるだけわかりやすく、その背景から結末までを解説していきます。
この記事でわかること
- 柳条湖事件の背景と時代の流れ
- 事件の計画に関わった人々と目的
- 事件が日本や国際社会に与えた影響
柳条湖事件の背景:揺れる日本と関東軍の緊張
柳条湖事件が起きた当時、満州(現在の中国東北部)には日本の関東軍が駐留していました。
この時期、関東軍や日本国内には大きな不安と焦りが広がっていました。
満州は「日本の生命線」と考えられた?
・満州は、今の中国東北部で、日露戦争後に日本が鉄道(南満州鉄道、通称:満鉄)の運営や、その周辺地域に影響力を持った地域です。
・関東軍は、日本の満州における権益や治安を守るために、大陸に置かれた陸軍の部隊です。
当時、日本は1929年(昭和4年・己巳)の世界恐慌による経済危機に苦しんでいました。
このため、資源が豊富な満州は、日本の経済を支える「生命線」のような存在だと、多くの人が考えていました。
一方、中国国内では「自分たちの国は自分たちの力でまとめよう」という意識が高まり、日本の満州での利権に強い反発が出ていました。
このため、関東軍の中では「このままでは日本の権益がなくなってしまうのではないか」という危機感(満蒙の危機)が高まったとされています。
より細かい事情については、こちらの記事も参考になります。
【わかりやすく解説】満州事変の背景とは?きっかけとなった満鉄並行線問題・中村大尉事件・万宝山事件
協調外交への不満と軍部の独断
当時の日本政府(第2次若槻礼次郎内閣)は、幣原喜重郎外務大臣を中心に、他国と協力して平和的に問題を解決する「協調外交」を目指していました。
しかし、関東軍の一部や日本国内の一部の人たちは、「政府は弱腰すぎる」と不満を募らせていました。
この結果、「軍事力を使ってでも満州を日本のものにしよう」という強硬な意見が、軍内で強まっていきます。
このような考えを先導したのが、関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎でした。
石原莞爾は、アメリカと日本が将来世界戦争を行う、という独自の視点(世界最終戦論)を持っていたことが知られています。
そのため、満州を日本の支配下に置くことが必要だと考え、積極的な行動を起こそうとした、とされています。
また、これより前の1928年(昭和3年・戊辰)には、関東軍が軍閥の指導者である張作霖を爆殺した事件(張作霖爆殺事件(満州某重大事件)とは?関東軍の暴走と田中内閣崩壊の真相をわかりやすく解説)もありました。
このように、政府や世論の動きにかかわらず、関東軍が独自に行動しようとする風潮が強まっていたのです。
運命の日――1931年9月18日、何が起きたのか?
ついに、歴史の転換点となる日がやってきます。
1931年(昭和6年・辛未)9月18日の午後10時すぎ。
中国の奉天(今の瀋陽)の北にある柳条湖付近で、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破されました。

この爆破事件について、関東軍はすぐに「中国軍がやったものだ!ただちに報復が必要だ!」と発表します。
ですが、実際の爆破はきわめて小規模で、すぐ後を電車が通過できる程度のものでした。
関東軍はこれを口実に、あらかじめ準備していた部隊で周囲の中国軍を次々と攻撃。
これが、いわゆる満州事変の始まりとなりました。
政府の誤算――なぜ関東軍を止められなかったのか
柳条湖事件の知らせを受けた東京の若槻内閣は、事態の拡大を防ごうと「不拡大方針」を決定し、軍に伝えました。
しかし、関東軍は政府の方針を聞き入れず、独自に軍事行動を拡大していきます。
このような事態となった大きな要因としては、次の2点がよく指摘されています。
– 統帥権(とうすいけん)の独立:当時の大日本帝国憲法では軍の指揮権は天皇に属すると解釈され、政府の指示が軍に徹底しない運用が一般的でした。そのため、政府は軍隊を十分に統制できなかったのです。
– 国民世論の影響:経済危機の中、満州での関東軍の活躍を賛美する世論もあり、政府も軍を強く抑えられない雰囲気がありました。
政府の意向と異なる行動を軍が進め、大きな国際問題へ発展する結果となってしまいました。
柳条湖事件がもたらしたその後――満州国と日本の孤立
政府のコントロールが効かない中、関東軍の作戦は進み、数か月で満州全域の主要都市を占領します。
そして、1932年(昭和7年・壬申)3月1日、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を元首にかかげ、満州国の建国が宣言されました。
しかし、この行動は国際社会に大きな衝撃を与え、国際連盟はリットン調査団を派遣して調査を開始します。
リットン報告書では「柳条湖事件の真相については明らかにしきれなかった」としながらも、満州の現状は日本の行動によるものだと報告し、日本の主張は認められませんでした。
この結果、日本は1933年(昭和8年・癸酉)に国際連盟から脱退し、国際的に孤立していく道を歩むことになりました。
その後、日本は軍部の発言力がより強くなり、日中戦争や第二次世界大戦へと進んでいきます。
まとめ
柳条湖事件について、要点をふりかえってみましょう。
- きっかけ… 1931年9月18日、関東軍による南満州鉄道(満鉄)線路爆破事件(自作自演が有力視されています)
- 背景・原因… 満州の利権を守りたい関東軍の緊張と、協調外交に対する軍内部の不満
- 主な人物… 関東軍参謀石原莞爾、板垣征四郎ら
- 結果… 満州事変が開始され、政府の不拡大方針は守られず、翌年に満州国建国
- 影響… 日本の国際的孤立、軍部の台頭、戦争の時代への道筋を作ることになった
柳条湖事件は、一夜の爆破事件が国を動かす大きな分岐点となった例です。
この事件は、「組織の暴走がどんな影響をもたらすのか」そして「国際社会で孤立することの危うさ」について考えさせてくれる歴史の重要なできごとといえるでしょう。







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