はじめに: 不穏な時代の幕開け
世界恐慌の嵐が吹き荒れ、日本の社会も大きく揺れていた1930年代初頭。
政治家に対する不信感と経済の混乱が広がるなか、
陸軍の一部の人びとの間で「この国を何とか立てなおさなければならない」と考える動きが高まっていきました。
この記事では、1931年(昭和6年・辛未)に起こった、日本で最初の本格的なクーデター未遂事件、三月事件について、背景から計画の全貌、失敗の理由とその後の歴史的意味までをわかりやすく解説します。
この事件の背後には、「桜会」という秘密結社が大きくかかわっていました。
秘密結社「桜会」の誕生
三月事件の中心にいたのは、桜会(さくらかい)という組織です。
この会は1930年(昭和5年・庚午)の秋ごろ、陸軍の若手や中堅の将校たちによって、秘密裏に結成されたとされています。
中心となったのは、橋本欣五郎(はしもときんごろう)中佐など、陸軍参謀本部に所属する将校たちでした。
彼らは、政党による政治の腐敗や、【年表】浜口雄幸内閣とは?金解禁とロンドン海軍軍縮条約の2年間をわかりやすく解説でも扱われているロンドン海軍軍縮条約(各国の海軍力を制限する取り決め)への不満を募らせていたようです。
この軍縮条約は海軍に限ったものでしたが、陸軍の将校たちも「政府が軍の意見を軽視しているのではないか」と感じていたようです。これを当時、統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題と呼んでいました。
桜会のメンバーたちは「昭和維新(しょうわいしん)」を合言葉にしていました。
これは簡単に言えば「明治維新のように、天皇のもとで国を根本から作りなおそう」という思想です。議会での話し合いによる政治ではなく、軍が主導して新しい日本をつくりたい、という考えがあったと伝えられています。
「クーデター」を目指した計画
内外の混乱に危機感を強めた桜会の一部は、力ずくで政権を奪おう、つまりクーデターを計画するようになります。これが三月事件です。

おおまかな計画の流れは、次のようであったと考えられています。
- 当時起きていた労働争議(労働者のストライキなど)を利用し、東京で大きな混乱を起こす。
- 「混乱を収めるため」と称して軍が出動し、国会(議会)を包囲する。
- そして、当時の内閣(政府)を辞めさせ、軍が推す人物を首相(総理大臣)にしようとする。
その首相候補として選ばれたのが、当時の陸軍大臣だった宇垣一成(うがきかずしげ)大将でした。
計画が失敗に終わったワケ
しかし、三月事件のクーデター計画は、実際には実行されませんでした。
最大の理由と考えられているのは、リーダー役として担ぎ出そうとした宇垣一成大将が最終的に計画への協力を拒否したことです。
宇垣自身は、当初は計画に共感を示していたとも、否定的だったとも複数の説があります。ですが、最後の段階で「これは危険すぎる」として、明確に反対したと言われています。
首謀者たちは最終的な確認のため宇垣のもとを訪れましたが、その場で計画を断念するしかありませんでした。
(この計画は)到底、予の認め得ざる所なり。
桜会のクーデター計画はこうして未遂のまま終わったのです。
その後への影響
三月事件は未然に終わったため、橋本欣五郎ら首謀者への処分もごく軽いものでした。
この点については「処分が甘すぎたため、軍部の過激な動きを止める歯止めが効かなくなった」と見る意見もあります。ただし、当時の時代背景や軍部の力関係を考慮する必要があるでしょう。
橋本たちは事件の失敗にもかかわらず、同じ年の秋にもう一度クーデターを計画しました。
これが、十月事件-1931年のクーデター未遂事件と陸軍内部分裂-として知られています。
三月事件は、日本で軍部が本格的に政治へ介入しようとした最初のクーデター未遂として、歴史に大きな影響を残しました。
その後、日本国内では軍部の発言力がより強まり、戦争へと突き進む暗い時代へと進む流れが強くなっていった——と言われています。
まとめ:三月事件が歴史に残した意味
三月事件は、昭和初期の混乱した時代に、桜会を中心とする陸軍の一部が実力で政権を奪おうとした最初の大きなクーデター未遂事件です。
事件そのものは未遂で終わりましたが、この動きがやがて五・一五事件や二・二六事件といった本格的な軍部の政治介入、暴走へとつながっていきました。
この事件をきっかけに、「軍部が国家の命運を左右しうる存在になった」という新しい時代が始まったともいえます。
三月事件を知ることは、なぜ日本が戦争へと突き進んでいったのかを考えるうえで、大切な一歩になります。
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