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昭和時代初期

なぜ「満州某重大事件」と呼ばれた?張作霖爆殺事件の真相と関東軍の暴走をわかりやすく解説

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昭和時代初期
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昭和初期、日本の新聞に突如として現れた「満州某重大事件」。
「某(ぼう)」は「ある」や「なにがしの」といった意味を持ち、事件名をはっきり出せないほどの重大な出来事に対し、あえて使われた表現でした。

なぜ、その事件名を隠す必要があったのでしょうか。
そこには、日本陸軍の一部による独断の暗殺計画と、その後の隠蔽(いんぺい)…まさに日本の歴史の流れを変える衝撃があったのです。

この記事では、高校生でも流れがつかめるよう「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつじけん)の全体像を、専門用語も噛みくだきながらやさしく解説します。

さらに詳しい背景や登場人物、異説などまで知りたい方は、大学生・専門向けの[こちらの記事]をご覧ください。

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事件の登場人物 — 関東軍と「満州王」張作霖

まず、事件の中心となった組織と人物についてご紹介します。

「関東軍」とは?
ここでの「関東」とは、決して東京や横浜などの日本の関東地方ではありません。
昔の中国東北地方・満州(まんしゅう)のことを「関東」と呼ぶことがあり、北京近くの「山海関(さんかいかん)」という関所より東側の一帯をさします。

関東軍は、この満州に駐屯(ちゅうとん)していた日本陸軍のことで、南満州鉄道など日本の経済的な権利=権益を守るために設けられていました。ですが、時間がたつにつれ独自の動き(時に政府の意向を無視)を見せるようになっていきます。

一方、満州(現・中国東北部)で強い力を持っていたのが、張作霖という軍閥(ぐんばつ:地方の有力武装グループ)のリーダーです。

張作霖はもともと馬賊(ばぞく:馬に乗った武装集団)の首領から大軍閥のトップへと成り上がった人物で、「満州王」や「奉天軍閥の頭(かしら)」などと呼ばれました。

当初、関東軍は満州で日本の立場を有利にするため、張作霖を後押ししていました。
しかし、張作霖がだんだん日本の言いなりにはならなくなり、関東軍内では「このままでは日本の権益が危ない」と警戒する声が増すようになりました。

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運命の日:1928年6月4日の爆破

この時期、中国本土では蒋介石(しょうかいせき)率いる国民革命軍が「北伐(ほくばつ)」という中国統一戦を展開していました。
北伐に追われて張作霖は本拠・奉天(ほうてん=今の瀋陽)に引き上げようとします。

1928年(昭和3年・戊辰)6月4日
張作霖を乗せた特別列車が奉天郊外の線路で突如大爆発します。

張作霖の乗った列車が爆破される様子

この爆発で張作霖は重傷となり、ほどなくして亡くなりました。
これこそが張作霖爆殺事件です。

事件を主導したのは、関東軍高級参謀河本大作(こうもとだいさく)大佐ら一部の将校とされます。
目的は、張作霖を排除して混乱を生み、その隙に日本軍が満州を全面的に支配する口実を作ることにあったとされています。
ただし、こうした計画について関東軍全体や本国・政府、陸軍の中枢部にどこまで知られていたかは、今も異説があります。

つまり、現場の一部将校による独断の暴走だった可能性が高いと言えるでしょう。

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隠蔽工作、そして政府の迷走

事件後すぐ、関東軍は「中国の国民党側ゲリラ(便衣隊)のしわざ」だと発表して自分たちの関与を否定しました。
しかし、現場状況や目撃証言から、しだいに「日本軍の仕業ではないか」との疑惑が強まります。

この報は東京の田中義一(たなかぎいち)首相にもすぐ伝わりました。
田中首相はもともと陸軍大将出身でしたが、「真相をきちんと調べ、もし日本人軍人が犯人なら重く処罰する」と昭和天皇に約束します(記録が残っています)。

しかし、陸軍内部では調査の妨害や責任回避の声が強まり、
「軍の名誉が傷つく」「国の不利益になる」という理由で、真相究明すら難航。
田中内閣は最終的に「誰が首謀者か、断定はできなかった」と報告するほかなくなります。

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昭和天皇の叱責と田中内閣の終焉

昭和天皇はこの報告を受けて、経緯と異なる内容に大きな不信と怒りを示したとされています。

昭和天皇

昭和天皇

お前の最初に言ったことと違うじゃないか

天皇に叱責(しっせき)された田中義一内閣は、まもなく総辞職となります。
より詳しいやり取りや内閣崩壊の詳細は、張作霖爆殺事件の結末|昭和天皇の激怒と田中義一内閣の総辞職でわかりやすくまとめられています。

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「最悪の前例」と日本の進路

この張作霖爆殺事件では、関東軍の中心メンバーも厳しく問われることはありませんでした。
河本大作らへの処分は「予備役編入」など、ごく軽いものにとどまっています。

このように事件の事実があいまいにされた結果、現地軍の暴走を処罰できなかったという最悪の前例が生まれてしまいました。

それ以降、「現場が勝手に事を起こして既成事実にすれば、政府も認めざるを得なくなる…」という危険な空気が軍内外で広まっていきます。
政府が軍をしっかりコントロールする「シビリアンコントロール(文民統制)」は揺らぎ、
日本がやがて戦争に突き進む土壌がここで作られたとも言われます。

(※「統帥権」やシビリアンコントロールは、統帥権干犯問題とは?で簡単におさえられます。)

その3年後の1931年(昭和6年・辛未)関東軍は再び独断で柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を起こし、満州事変やその後の満州国建国へと日本の進路は大きく動いていくのでした。

張作霖爆殺事件は、単なる暗殺事件ではありません。
昭和の日本が、軍独走・戦時体制への道を歩みだす分岐点だった、と多くの歴史家が指摘しています。


※このページは流れ理解を重視した入門解説です。
より詳しい史実・異説・外交背景については [満州某重大事件の真相] もご参照ください。


参考文献
・新版 昭和史 1926-1945(半藤一利、平凡社)
・昭和天皇独白録(寺崎英成・マリコ=テラサキ=ミラー 編、文藝春秋)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。

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