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昭和時代初期

【3分でわかる】山東出兵とは?田中義一内閣の対支政策綱領までわかりやすく解説

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昭和時代初期
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なぜ昭和初期の対中政策は強硬になったのか?

昭和初期、日本と中国の関係は大きな変化を迎えていました。
日本国内では金融恐慌などの混乱もあり、「中国への対応をもっと強めるべきだ」という声が高まっていました。

幣原喜重郎の「協調外交」から田中義一の「積極外交」へ

これまで日本は、外務大臣幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)を中心に、協調外交(欧米と協力し、中国国内の問題にはあまり関わらない方針)を進めてきました。
しかし、陸軍や一部政治家から「それでは弱い」と批判の声が強まります。

その後、1927年(昭和2年・丁卯)に陸軍出身の田中義一(たなか ぎいち)が首相になり、ここから日本の対中国政策は大きく変わることになります。
この政策転換は、いわゆる積極外交(力を使って自国の利益を守ろうとする外交)の始まりでした。

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中国統一を目指す蒋介石の「北伐」とは

当時の中国は、軍閥(ぐんばつ:地方の軍人勢力)が各地で争って分裂状態でした。
この混乱をまとめようとしたのが、蒋介石(しょうかいせき)率いる中国国民党です。

1926年(大正15年/昭和元年・丙寅)、蒋介石は「中国を統一しよう!」と宣言し、全国の軍閥を倒すための軍事行動を開始します。
これが北伐(ほくばつ)です。

北伐を進める国民革命軍の兵士たち

北伐軍は順調に進み、日本の権益(工場や鉄道など)が多くある山東省(さんとうしょう)へ近づきました。

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山東出兵の目的と経過【第一次・第二次】

第一次山東出兵(1927年):居留民保護を名目に

北伐軍が山東省に迫ると、
1927年(昭和2年・丁卯)5月、田中義一内閣は政府や軍の協議の末、「居留民保護」(きょりゅうみんほご)を理由に日本軍を山東省の青島(チンタオ)などに派遣します。
これが第一次山東出兵です。

「居留民」とは?
居留民(きょりゅうみん)は、海外に住んでいる自国民のこと。今回は中国山東省に住む日本人が対象でした。住民の生命や財産を守ることが名目ですが、実際には日本の権益(鉄道・工場等)防衛の意味も大きかったと考えられています。

日本軍の出兵によって、蒋介石の北伐は一時中断せざるを得なくなり、
日本は同年8月、状況が落ち着いたとしていったん撤退を表明しています。

ただしこうした行動が「中国の統一を妨げたいのでは?」と中国側に取られ、両国の信頼関係に影響したと言われます。

第二次山東出兵と済南事件(1928年):日中の武力衝突

日本の強硬姿勢に反発し、中国では日貨排斥運動(日本製品ボイコット)がさらに盛んになりました。

蒋介石1928年(昭和3年・戊辰)4月北伐を再開し、ふたたび山東省に進軍します。
日本はこれに対し、第二次山東出兵を決定。
両軍は山東省の済南(さいなん)市で衝突します。これが済南事件(さいなんじけん)です。

この事件は、多くの軍人・民間人が犠牲になり、日中両国の対立を一気に深める決定的な出来事となりました。

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日本の針路を決めた「対支政策綱領」を3つのポイントで解説

東方会議で決定された満蒙分離方針

1927年(昭和2年・丁卯)6月、田中内閣は東方会議(とうほうかいぎ)という重要な会議を東京で開きました。
ここには外務省や陸軍の上層部が集まり、ほぼ2週間にわたって日本の中国政策について議論します。

この会議の結果まとめられた方針が対支政策綱領(たいしせいさくこうりょう)です。3つのポイントは以下の通りです。

  1. 満蒙(満州・内モンゴル)は中国本土と切り離し、日本の特別な利益を守る地域とする
  2. 中国の完全な統一は日本の利害と一致しないので、軍閥対立を利用する
  3. 日本の利益が脅かされれば積極的に行動する(必要なら武力も)

これは「話し合い優先」だった協調外交から、「力による権益守り」に日本が大きく舵を切った瞬間だと評価されます。

田中メモランダムって?
東方会議の直後、「田中義一が天皇に出した秘密文書」が海外で発表されました(田中メモランダム・田中上奏文)。「日本は武力で中国を征服しようとしている」という内容で、世界に大きな衝撃を与えましたが、現在ではこの文書自体が偽物だった、という説が有力です。何者かが日本の評判を落とすために作ったフェイクではないか、と考えられています。
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まとめ:山東出兵が満州事変につながるまで

田中義一内閣の山東出兵対支政策綱領は、日本の対中国・満州政策を「力強く進める」という方向へ大きく変えるターニングポイントとなりました

この強硬姿勢は、その後の張作霖爆殺事件と満州某重大事件、さらに満州事変へとつながっていきます。

より詳しく知りたい方は、田中義一内閣の政策とは?金融恐慌から積極外交、張作霖爆殺事件までわかりやすく解説の記事も参考にしてください。


※本記事は高等学校の日本史学習者向けに平易な言葉で整理しています。史実については研究者間で評価が分かれる部分も多く、断定しすぎない形でまとめています。


参考文献
・新版 昭和史 1926-1945(半藤一利、平凡社)
・昭和天皇独白録(寺崎英成・マリコ=テラサキ=ミラー 編、文藝春秋)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。

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