持統天皇の時代(690年~697年)の話についてまとめていきます。
持統天皇の即位とその背景
天武天皇の死後、皇后の鸕野讃良皇女は、
称制(即位せず、政務を行うこと)をして、
自らの子で皇太子である草壁皇子と共同統治を始める。
二年以上続いた天武天皇の葬儀の後、草壁皇子が即位するはずだった。
しかし、草壁皇子が天武天皇の葬儀後に死去。享年28歳。
皇子の子(皇女の孫/のちの文武天皇はまだ7歳であったために、
690年、皇女自らが夫の天武天皇の意思を引き継いで、即位することとなった。
即位して持統天皇と名乗った。
(※草壁皇子と異母兄弟の大津皇子は謀反を計画して、
そのことが発覚後、自殺し他界した。)
飛鳥浄御原令
689年(称制の時)、
天武天皇が編纂していた飛鳥浄御原令を持統天皇の政務時に施行した。
飛鳥浄御原令は現典が現時点では発見されておらず、
詳しいことはわかっていない。
庚寅年籍
しかし、飛鳥浄御原令の「戸令」に基いて、
庚寅年籍の作成が命じられ、690年に庚寅年籍は完成する。
日本で最初の令制的戸籍(六年一造,6年に1回戸籍を造る/702年に作られた筑前国嶋郡川之辺里が現存最古の戸籍と思われていたが・・・
他サイトリンクによると、696年調査時のものが発見されたようだ。
五十戸を一里として国・評・里・戸の制を確立した。
戸は、1戸から1人を徴発するため、
成年男子が平均4丁含まれるようになった。
班田収授法
692年より、班田収授が全国的に本格的にはじまった。
これにより、税収が安定するようになった。
藤原京の完成と遷都
694年、飛鳥(あすか)の北方に天武天皇が造営に着手していた藤原京が完成。そして
持統天皇の時に藤原京への遷都が行われた。
藤原京の概要
藤原京は、東西2km,南北3kmにも及ぶ最初の本格的都城。
中国の都城制(とじょうせい)を取り込んだ都。
さらに、条坊制(じょうぼうせい)も実施され、
京に皇族・貴族・有力者が集住させられた。
藤原京は持統天皇から元明天皇まで続いた宮都。
律令国家完成と中央集権国家完成を象徴する都となった。
大和三山
大和三山(やまとさんざん)とは藤原京を取り囲んでいる3つの山を指す。
- 耳成山
- 天香具山
- 畝傍山
の3つです。
一番北に位置するのが耳成山(みみなしやま)。
東側に天香具山(あまのかぐやま/天香久山とも)。
西にあるのが畝傍山(うねびやま)である。
市場
藤原京南西の軽市(かるのいち)と藤原京北東の椿が植えられていたという海石榴市(つばきいち)が栄えていた。
道
行道
横大路(よこおおじ)が藤原京の北を横へと貫いている。
列道
一番西側が下ツ道(しもつみち)が藤原京の西側を、真ん中(藤原京より東)には中ツ道(なかつみち)、さらに東側に上ツ道(かみつみち)が下ツ道の軽市へと続いている。
○○京と○○○宮の違い
~京は、宮殿を含む町全体を指す言い方で、
~宮は、宮殿や宮城だけをさす言い方。
参考リンク
朝日新聞デジタル:律令前の「支配」浮かぶ 7世紀末の戸籍木簡出土
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