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幕末

長州藩外国船砲撃事件と四国連合艦隊下関砲撃事件

幕末
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孝明天皇は和親子内親王の結婚を許す代わりに、
攘夷の断行を要求しました。

詳しくは


をご覧ください。

1863年、賀茂社で攘夷祈願をした孝明天皇は、
軍の徳川家茂に攘夷を決行する日を迫りました。
条約に攘夷はしないと外国と約束していたため、
一橋慶喜は5月10日と空返事をし、
全国に攘夷実行の通達しました。

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長州藩外国船砲撃事件

5月10日になり、結局、幕府は攘夷を実行しません。
一方で、長州藩は攘夷を通達通り決行しました。
長州藩は下関海峡を通る外国商船を砲撃しました。

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四国連合艦隊下関砲撃事件

翌年の1964年、長州藩は報復を受けます。
アメリカ・イギリ・フランス・オランダの四ヶ国から砲撃を受けます。

ロシアは入りません。

戦況

8月5日の午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛攻撃を行いました。
その攻撃に対して長州藩は前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台で反撃を行い、当初は善戦しておりました。
しかし各国の国々が集まった力には勝てず、砲台は次々に粉砕されてしまい、陸へ降りた連合艦隊の陸戦隊に砲台を占拠されてしまいました。
6日、壇ノ浦砲台を守備していた山県狂介(※後の総理大臣・山県有朋)は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時的にその艦隊を混乱状態に陥れましたが、艦隊はすぐに大勢を立て直し、砲撃を仕掛けると同時に陸戦隊を降ろすと、砲台を占拠して砲の破壊を行い、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦しました。
7日、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃を行うとともに、陸戦隊を上陸させて砲60門を鹵獲し、8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊されました。

陸戦においても、弓矢や火縄銃といった旧式の装備だった長州藩は、新式のライフル銃で装していた連合艦隊の陸戦隊に敵わず敗退してしまいます。

ただし、この戦いでの長州藩は政治の中心地である萩や山口から場所で戦ったため、本気で勝負していなかったと思われます。

者・負傷者数

死者負傷者合計
長州藩1829人47人
連合艦隊12人50人62人

その後

こうして長州藩も攘夷の実行が不可能であると考え始めます。

この戦いで長州藩は「敵の砲弾を受けて体がバラバラになっていく戦友を目にした時、「どうやって葬すればいいのか」と途方くれた」、「夜間敵が船に引き上げて軍楽隊を演奏させて楽しんでいる様子が聞こえてきて悔しかった」と語っていますが、「戦闘が止んだときは下関民が地の修復などに協力していただいた」「藩主が派遣していただいた精鋭部隊が応援へ来てくれたが、役に立ちそうでないので帰ってもらった」「大砲の不足から、木をくり抜いて作った大砲である「木砲」を代わりに使って闘っていたので、講和後にそれを引き渡すのが恥ずかしかった」と貴重な経験をしたと語っており、その経験が後の戊辰戦争で役立ったらしいいです。

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