最近まで、斎藤実内閣の政策を書いてきました。
斎藤実内閣のまとめ記事も書いておきます。
最近、親記事を作ると、そこにPVが集中する傾向が判明しましたので、
項目別に最近、記事を作ってるんですよね
今回は斎藤実のまとめ記事です。
ざっくりとまとめていきますよ。
では、復習しましょう。
挙国一致内閣
斎藤実内閣は挙国一致内閣として誕生しました。
鈴木貫太郎内閣まで挙国一致内閣です。
農村救済政策
日本は農村恐慌が襲い、
娘を売りに出さないといけない状態で、
簡単に言うと口減らしが必要な状況でした。
食料不足で労働力が余っていました。
満州国に労働者を移したり、
ブラジルやアメリカ西部やハワイなどに移民を送りました。
農村救済請願運動
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農村恐慌で、農村は凶作続き災害続きで当時は大変な状態でした。
外に送り出すだけじゃなくて、
中からも変えようという話です。
「助けて」という農村の話を受けて、
極右の農本主義者たちは国に圧力をかけて、
農村に給付金が大量にでました。
農山漁村経済更生運動
政府が農山漁村の再興を進めるために、
政府の内務省と農林省が村々に給付金を配りました。
![](https://xn--mprwb863iczq.com/wp-content/uploads/歴-160x90.png)
その予算は時局匡救事業といいます。
「我が代表堂々退場す」
リットン調査団
![](https://xn--mprwb863iczq.com/wp-content/uploads/リットン調査団-160x90.jpg)
満州事変直後、
中国は日本に対して侵略行為として、
国際連盟に提訴して、
リットン調査団は現地調査をします。
日本、国際連盟脱退
![](https://xn--mprwb863iczq.com/wp-content/uploads/我が代表堂々退場す-1.jpg)
国際連盟の外交官・松岡洋右は国際連盟の
満鉄附属地まで撤兵してください。
という議決が42:1で可決されました。
覚え方は「死にィ」です。
塘沽停戦協定
1933年、塘沽停戦協定が結ばれます。
満州事変の講和条約のようなものです。
停戦であって、終戦じゃないのがポイントです。
万里の長城以南に非武装地帯が設定されていきました。
学問統制
滝川事件
京都大学の滝川幸辰が唱えた姦通罪に
「共産主義的だー!」として、
京都大学から追い出した事件
くわしくは
を参考にしてください。
転向声明
1933年に佐野学と鍋山貞親が、獄中で転向声明を出します。
日本史でいう転向は共産主義から国家主義や国家社会主義へと考えを獄中で色々思考トレーニングを積んで考え方を強制的に変えてもらうことを転向といいます。
日本国家社会党
赤松克麿が中心として、1932年に日本国家社会党が生まれています。
帝人事件
斎藤実内閣は帝人事件で退陣します。
帝国人絹会社の株式売買をめぐる汚職で退陣。
今どきで言うインサイダー取引ですね。
当時の日本は軽工業がメイン工業です。
こうして1934年、斎藤実内閣は退陣します。
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