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河野家戦国時代

応仁の乱

河野家
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享徳の乱とともに戦国時代の開幕を告げる乱。
応仁の乱

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嘉吉の乱の戦後処理と山名宗全と細川勝元の対立

1447年、山名宗全(やまなそうぜん/宗全は出家後の名前。本名・持豊もちとよ)が嘉吉の乱で足利義教とともに殺された山名煕(ひろたか)の娘(宗全の養女)を細川勝元に嫁がせた。その後の1454年、嘉吉の乱の原因となった赤松家の処遇をめぐり、赤松家再を目指す足利義政とそれに反対する山名宗全が対立。山名家に対して、追討命令が出されるが、細川勝元のとりなしで赦される。1458年、赤松政則を加賀守護に細川勝元が取り立てた。これにより赤松家は再興するも、赤松家を再興した細川家と赤松家に恨みのある山名家が対立するきっかけともなる。対立するきっかけはこれだけではなく、細川勝元に男子(細川政元)が生まれると、細川勝元の養子の山名豊久を廃嫡し、仏門に入れたことも要因。

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応仁の乱の原因・理由

応仁の乱は、複雑な親戚関係が色んな家で起こったために、
起こります。

  • 足利将
  • 河内畠山家
  • 斯波家

などの跡目争いで、人間関係がぐちゃぐちゃになりました。

詳しくはの記事をご覧ください。

応仁の乱の原因・理由
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応仁の乱の前哨戦

細川勝元と山名宗全の間で、小さな戦いが相次いで起こります。
詳しくは下の記事をご覧ください。

応仁の乱の前哨戦-三管領細川氏の伊予侵攻と赤松氏の播磨強奪-
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応仁の乱の本戦

細川勝元の一色侵攻後、
1467年6月に山名宗全も挙兵し、応仁の乱が始まります。

はじめは、西軍山名軍が義政・義尚・義視を
確保していた東軍細川軍に対して、
細川東軍有利で応仁の乱はすすんでいました。

しかし、1467年8月に
大内教弘の後継・大内政弘が
周防・長門・豊前・筑後の大軍を率いて山名西軍に加わったため、
状況は一変します。

細川東軍は将軍の屋敷を中心とする一角に追い込まれた。

そんな中、1468年11月足利義視が脱走し、
西軍に逃げ込んだことから
細川勝元率いる西軍は足利義視を将軍として擁立し、
東西2つの幕府が成立します。

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応仁の乱の結果

山名宗全と細川勝元の相次ぐ死去

1473年に西軍の山名宗全と東軍の細川勝元が相次いで没する。

山名宗全の死去

1472年8月に山名政豊に家督を譲り、1473年3月18日、京都で死去した。遺体は南禅真乗院に葬られた。

細川勝元の死去

1473年5月11日、細川勝元は死去。悲田院の地蔵院に葬られた。

足利義尚、将軍へ

12月19日9歳の足利義尚は、元服し、足利義政から将軍職が譲られた。元服の儀に際して、畠山政長が三管領で唯一成人していたため管領に選ばれた。

戦国乱世へ

上記の二つの解決により、戦乱は一応終わる兆しを見せる。しかし、その戦乱しだいに収拾がつかなくなり、足軽の略奪が横行するようになった。1477年(文明9年)に畠山義就と大内政弘が下国するにあたり、両軍の間に和議が申し込まれた。東軍の畠山政長と細川政元(細川勝元の子)が勝利する。山名家の勢力は但馬あたりまで勢力が縮小した。やがて細川政元は畠山政長を追放し、斯波家・畠山家ともに没落し、管領のは細川家が独占する。

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応仁の乱のその後

影響

京都の町を荒れ果てさせ、後に来訪するザビエルもびっくりなくらいな状態になった。

「汝(な)レヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀(ゆうひばり) アガルヲ見テモ落ツル涙ハ」

飯尾彦左衛門尉(いいおひころくさえもんのじょう)
「応仁記」

幕府の権威は失墜し、土地制度として、荘園制も消滅し、実力主義の時代へと転換していった。

「例」という言葉を今後は「時」という言葉に置き換えよ

山名宗全
「塵塚物語」

山名宗全は時代の転換を論じた。

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戦国時代の幕開け

下克上と呼ばれる実力で家臣が上司を倒すことが頻発する現象。守護大名も多くの場合没落しており、斯波家は織田家などに下克上をされた

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