日本の情勢
7世紀末の飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)と701年の大宝律令により律令国家が成立。
阿波国の成立
粟国と長国
「阿波国」には、昔、北の方面を中心とする「粟国」(あわのくに)と、南の方面をさす「長国」(ながのくに)の二カ国からなっていたとされる。これら二カ国を合併し、名方郡(なかたぐん)・板野郡・阿波郡・麻植郡(おえぐん)・美馬郡(みまぐん)・勝浦郡・那賀郡(なかぐん)の7郡からなる1国が作られた。(那賀郡は長国に由来すると思われる。)郡の下には里と戸が置かれた。
郡の階級
阿波国の場合は、名方郡・板野郡・那賀郡が上郡、その他は下郡と位置づけられた。
阿波国府
阿波国の中心は現在の徳島市国府町付近である。国司がいつもいた。周辺には、国分寺と国分尼寺が建立された。
在地豪族・粟凡直氏
墓碑に残る名前
名西郡石井町中王子神社にある古代のレンガには「阿波国造名方郡大領正七位下粟凡直弟臣墓」と刻まれており、その横には「養老七年歳次癸亥年立」と723年に作られたことを示している。これは日本最古の墓碑の1つである。これは阿波国の国司を務めた一族で、名方郡の郡司だった粟凡直弟臣という人が8世紀前半死亡し、そこに祀られたことを示すものである。それは、吉野川下流域を治めた1つの豪族の姿を映し出すものである。
7世紀後半より、粟凡直氏は吉野川下流域を支配し、「評督凡直麻呂」(こおりのかみおおしのあたいまろ)という人が管轄していたことを示す『続日本紀』(しょくにほんぎ)からもわかる。粟凡直氏は国造制から評制、郡制にいたるまで、阿波国を本拠とする在地豪族として君臨し続けた。
粟凡直若子(別名・板野命婦)
粟凡直若子(わかこ)(別称・板野命婦(みょうぶ))は天平期の奈良の采女(うねめ/うぬめ)。藤原房前の側室となった。その間に子を設けその後、中央政界で活躍。粟凡直若子は藤原房前の死後、745年、外従五位下(げじゅごいげ)に叙勲され、また板野命婦の名で、続日本紀や正倉院文書にしばしば登場する。藤原仲麻呂のもと、政権中枢である紫微中台(しびちゅうだい)に751年から754年までの4年間出仕し、紫微中台と造東大寺司(ぞうとうだいじし)との間に置かれた連絡女官となったことが活躍の要因。
新島荘
ころは光明皇后の意向のもと、東大寺完成へ向けて急ピッチでことが進んでいた時期であり、列島の各地に東大寺領荘園が一気に成立する時期でもある。そして、其の頃、東大寺領荘園が阿波国の吉野川下流域で新島荘(にいじまのしょう)が完成する。粟凡直若子の活躍時期が荘園設置の勅の直後だったこと、さらには活躍舞台が造東大寺司と仕事をしていたこと、そして、出身の粟凡直氏が吉野川下流域に本拠地を置いていたことから若子と新島荘の設置が無関係ではないことを示す。
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