平安時代中期

平将門の乱~いつ?なぜ?どこで?誰に鎮圧された?を解決~

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平安時代中期
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平将門とは?

平将門の血筋

 平将門は、桓武天皇の血を引く高貴な血筋です。

 平将門の祖父は高望王ですが、高望王は桓武天皇のひ孫にあたります。高望王は「平」を賜って臣籍降下で関東の上総国(現在の千葉県の中部の東西一帯)の国司を務めました。

 高望王の男児は5人います。平国香・平良兼・平良将・平良文・平良繇らです。平将門の父は平良将です。現在の千葉県佐倉市にあたる下総国佐倉を領有していました。

平将門の青年期

 平将門は都会に憧れる田舎の関東の青年でした。15歳で念願の上京を果たします。藤原四子の名門・藤原北家・藤原忠平の鞄持ちとなりました。藤原忠平に憧れの検非違使を志願しますが、藤原忠平は藤原以外は認めなかったので、ランクが低い証拠の職である官位も低い、天皇の護衛をする「滝口の武士」どまりでした。

 平安時代は律令制度が崩れ始めた時期だったのは、以前お伝えしましたね。

天皇を中心とするゆるやかな君主制の国になっていましたが、21世紀の日本のように悪吏が多くいる時代でした。耕作を放棄する人が増大する荒れた時代でした。人々は重税から逃れるために逃散などを行っている時代でした。都では藤原氏の独裁政権が築かれていた頃です。いくら血筋がよくても、藤原氏ではなければ、いい官職につける時代ではなかったのです。

そして、父・平良将が亡くなりました。平将門は領国である実家の佐倉へ夢半ばで帰国することとなります。

平将門の領地経営と親族バトル

平将門と領地経営と婚姻問題

 平将門が実家の佐倉に戻ると、自分の領土が父の兄弟である下野介・平良正たいらのよしまさと上総介・平良兼たいらのよしかねと陸奥大掾の平国香たいらのくにかに乗っ取られていることがわかりました。平国香は特に重要なので覚えておいてください。さらにその伯父3兄弟は平将門は結婚を源衛みなもとのまもるの娘たち三姉妹を希望していましたが、三姉妹と伯父たちがそれぞれ結婚してしまいます。平将門は今で言うネトラレを経験していたのです。さらに結婚できた妻も源衛の息子たち3人ともに狙われるハメになります。

平将門の乱

平将門の乱の背景

 朱雀天皇の時代(930年~946年)のころには、平将門は泥棒と浮気相手を相手取り決起します。その頃の拠点であった下総国猿島から出立して、935年、源衛の三兄弟と平国香を合戦で勝利し殺害を成し遂げるのです。源衛が朝廷に訴え出ました。平将門は捕縛されてしまいますが、937年には朱雀天皇の即位で恩赦。晴れてシャバに出られました。

平将門の乱の発生

939年、
常陸国(ひたちー/現在の茨城県の大半)
国司の無道ぶりを訴えてきた
常陸の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)
とともに平将門は反乱を起こしました。

朝廷の追討対象となってしまいました。

平将門の乱の流れ

将門は常陸国衙(こくが)を攻め落とし、国司の証である印鑑(国印/こくいん)などを奪い、そのまま国衙を焼き払います。

国衙は律令国家の支配組織の国司を参考に!

下野国(しもつけー/現在の栃木県)・上野国(こうずけー/現在の群馬県)国衙を攻め落とし、下野で新皇(しんのう)と自ら称するようになります。関東の独立を宣言されました。

承平の乱(平将門の乱)の地図
平将門の乱の地図

つかの間の関東独立の伝説でした。

平将門の乱の鎮圧

朝廷はこれを鎮めるために、藤原忠文(ふじわらのただぶみ)を征東大将軍として東国に派遣します。また、平将門の報奨として、討ち取ったものは貴族にすると宣言します。そして、その到着を待たずに、
平国香の子・平貞盛(たいらのさだもり)と下野国の豪族で下野国の押領使である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって、平将門の本拠地を強襲し、この平将門の乱は平定されます。

平将門は矢にあたって討死してしまいます。

平将門の首塚

平将門の首塚は将門塚として、
東京都千代田区に祀られています。

平将門の伝説

wikipediaによると、

関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件

があったようです。要するに平将門の首塚を撤去しようとすると怨霊に殺されてしまうという伝説ですね。

将門記

日本初の軍記物として、『将門記』(しょうもんき)が平将門の乱を扱ったものとして書かれました。

「将門記」には、平将門の乱の経緯が、くわしく記載されています。

非常に多くの出来事が、こと細かく書かれているため、10世紀の武士がどういうものであったかを、イメージするのには、将門記はピッタリなものでした。

将門の乱を考えることが、10世紀の社会を見つめなおすことに通じるのです。今の日本は、中央集権があまりに強くなり過ぎた結果、地方には不満がたまるとともに、地方の衰退がすすんでおります。

21世紀前半は、おそらく、平安時代中期から末期にかけての、地方武士が徐々に勢力を強めたように新たな勢力が登場するかもしれませんね。

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