スポンサーリンク宋の中央集権化契丹族夏西夏北方西方官僚宋遼国家財政敗北タングート族宋の外交的敗北~澶淵の盟と慶暦の和約~宋の中央集権化TwitterFacebookはてブPocketLINEコピー2022.02.172014.10.19 この記事は約1分で読めます。スポンサーリンク文治主義の結果、宋は対外的な軍事力が下がり、そのため、北方や西方から遊牧民が絶えず、やってきては侵入することに対し、常に守勢となった。つまり、対外的には消極的だったということである。1004年契丹族の遼と澶淵(せんえい)の盟を結ぶ莫大な歳幣(毎年銀10万両・絹20万匹(ひつ))を宋は遼に贈る。遼は宋に攻撃をしない※1匹=12.29m 両=37.3kg1041年タングート族(党項族)の西夏と慶暦の和約を結ぶ。宋は絹13万匹、銀5万両、茶2万斤を西夏に贈ること。西夏は宋に臣下の礼をとること。西夏は宋に攻撃しないこと一応国内は平和になったが、こうした、対外的支出に加え、増加した官僚と傭兵の給与で国家財政は危機に陥る。共有:TwitterFacebook関連 Related Posts西夏(せいか)平安時代の国際関係と刀伊の入寇靖康の変と北宋の滅亡耶律阿保機の遼(大契丹国)建国から滅亡と西遼まで神宗の宰相・王安石の新法~その政策の内容は?~ Tags: 敗北,北方,官僚,タングート族,夏,宋,契丹族,西方,遼,国家財政,西夏
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