玄宗の晩年~楊貴妃溺愛と楊一族の優遇~
天宝年間になると玄宗は政治に飽き、
お気に入りの寵臣ばかり起用し、
お気に入りの寵臣ばかり起用し、
玄宗の息子の妃の絶世の美女・
楊貴妃(体重約70kg)を後宮に迎え溺愛し、
政務を怠り、楊一族を要職につけた。
楊貴妃(体重約70kg)を後宮に迎え溺愛し、
政務を怠り、楊一族を要職につけた。
李林甫の政治
この頃、政治を仕切っていたのが、
李林甫です。
李林甫は、
「口に蜜あり腹に剣あり」と評される策謀家でした。
辺境節度使が軍功によって、
自分のライバルになるのを防ぐために
節度使に非漢族の武人をもちいました。
安禄山の台頭
その後、ソグド系の武将・安禄山が
玄宗の信任を受け、平盧・范陽・河東の三節度使を兼任するようになりました。
一方朝廷では、楊一族の楊国忠が宰相として実権を握っており、
安禄山と激しく対立しました。
安史の乱
安禄山は楊国忠打倒のもと挙兵し、洛陽・長安を陥落させ、
国号を燕とし、大燕皇帝を自称するようになりました。
玄宗は蜀へと落ち延びたが、部下の不満を取り除くため、
楊貴妃に死を命じねばならなかった。
この反乱は次子の安慶緒、さらに部下の史思明・史朝義父子によって
継続されたため安史の乱(755~763)と称され、約9年に渡る大乱となった。
人口も3分の1になってしまいました。
人口も3分の1になってしまいました。
ウイグル人の援助などにより鎮圧されたが、王朝の衰退は決定的となりました。
また、チベット系の吐蕃は安史の乱の時に長安を占領した。
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